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私たちは生きているのか? [日本の作家 森博嗣]


私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback? (講談社タイガ)

私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback? (講談社タイガ)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/02/21
  • メディア: 文庫


<裏表紙あらすじ>
富の谷。「行ったが最後、誰も戻ってこない」と言われ、警察も立ち入らない閉ざされた場所。そこにフランスの博覧会から脱走したウォーカロンたちが潜んでいるという情報を得たハギリは、ウグイ、アネバネと共にアフリカ南端にあるその地を訪問した。富の谷にある巨大な岩を穿って造られた地下都市で、ハギリらは新しい生のあり方を体験する。知性が提示する実存の物語。


Wシリーズの第5作です。
「デボラ、眠っているのか?」 (講談社タイガ)の感想にもかきましたが(リンクはこちら)、このシリーズはロンドンに既読の分も持ってきています。
この「私たちは生きているのか?」は、手元の記録によれば2018年2月に読んでいるのですが、読み返しました。

今回の舞台は南アフリカです。かなり地球上をあちこち移動するシリーズですね。

あらすじにも書かれている「富の谷」でハギリたちが経験するものは、わかりやすく言えば映画「マトリックス」の世界です。
身体を置いておいて、意識は電脳空間へ、というアレです。電脳世界で戦ったりはしませんが。
身体と切り離して、意識が存在する、という事態を経験して、考察が深まっていく、という仕掛けになっています。

本書のタイトルからして、「私たちは生きているのか?」で、ここまでシリーズを通してかなり議論が深まってきていることを示していますね。

人間とウォーカロンの違い、というところから発展しています。
人間とウォーカロンという議論では、ついにハギリは、
「ただ言えるのは、人間とウォーカロンが同じものにならない道理がない、ということです。それがサイエンスというものです。どうしても同じにならないなら、そこには確固とした理由がある。理由があるならば、それは必ず解決できるはず。それが科学というものだからです」(195ページ)
という境地に達していますので、次のさらに大きなポイントへ向かっているということでしょう。

とはいえ、人間とウォーカロンの違いには、曖昧さ、とか偶然にたよる、とか発想の飛躍とか、いくつかそれらしいことはシリーズの中で出てきていますが、まだ回答が出ていません。
「そういった感情は、なぜ存在するのだろう?
 ここが、僕にはわからない。
 感情があって良かったな、これがあるから面倒だな、と思うことは誰にもあるはずだ。
 でも、何故あるのか?
 感情がなければならない理由とは何なのか、という問題だ」(246ページ)
というところを読んで思ったのは、感情がキーになるのかな、ということです。
感情があるから不完全で、感情があるから飛躍が生まれる...

生きている、という点では、英語タイトルが示唆的ですね。
Are We Under the Biofeedback?
Biofeedback という以上、この問いには、いわゆる生体反応がベースにありますね。
でも、生体反応をベースにする考え方は、さっさとハギリに否定されてしまいます。

「医療技術が発達した現代では、人は滅多なことでは死なない。以前だったら明らかに死亡と判定される状態になっても、多くの場合蘇生できる。人格が再生されないケースまで含めれば、ほぼどんな状態からでも躰を生き返らせることが可能だ。極端なケースとして、遺伝子さえ残っていれば、そこからウォーカロンとしてクローンを作り出すことができる。
 このような状況にあれば、生命の重要さは、逆に過去のどの時代よりも低下していると見ることができる。同時に、本当に自分たちは生きているのか、といった、生命の概念にまで議論が及ぶだろう。少なくとも、生命を再定義しなければならなくなっているのだ」(113ページ)
「人の命はかけがえのないもの、この世で最も貴重なもの、という信念によってすべてが進められてきた。だが、それは本当なのか、どうしてそんなことがいえるのか、という危うい境界にまで、我々の文明は到達してしまったのである。」(114ページ)
生体反応を否定するどころか、命のかけがえのなさ、まで否定される始末。

それどころか、さらには
「いつか人間もボディを捨てる時代が来るだろう。」(254ページ)
「そのあとには、脳もいらなくなる。脳だって、肉体だからだ。
 人間は、いつか人間と決別することになるだろう。
 抗し難い運命的な流れなのか。」(254ページ)
「精神的な崩壊も心配されているけれど、その精神さえ、洗練されたアルゴリズムで補完されていく未来が、すぐそこまで来ているのだ。肉体を人工細胞で補完したように、人工知能が人間の精神を導くしかない」(254ページ)
と来て、精神まで人工のものになる未来が示唆されています。
ここまで切り離しが進んでしまうと、思考とか論理とかこそが人間の本質だ、という感じになってきますね。
こうなるとちょっと拒否感が強いですね(作中でも、この種のことについては導入時点では拒否感が強いといったエピソードが示されます)。

引き続きデボラが登場し、活躍するのですが、
「私は、デボラは生きていると思う」「自分の存在を意識できる能力、その複雑性が、すなわち生きているという意味だ、と私は解釈しているから」(194ページ)
とハギリが考えるところがあって、前作「デボラ、眠っているのか?」に続いて、おやおやどうなることやら...と思わされるのですが、一方で...
ローリィという登場人物(人間、と観察されています)が自分は生きていないと言った理由としてデボラが用意した答えが
「彼が生きているからです」(262ページ)
おもしろい! 確かにデボラは生きている、と言えそうな雰囲気を醸す答です。
でも、それを受けて、
『「素晴らしい答だね。君は生きているんじゃないかな」
「いいえ。私は、それを自分に問うことさえありません」』(262ページ)
と、あっさりとデボラ自身に否定させているのがおもしろいですね。
それを
「そうか……
 生きている者だけが、自分が生きているかと問うのだ。』(262ページ)
と、ハギリが敷衍します。
自分が生きているかと問うのは、やはり感情のなせる業な気がします。

シリーズ愛読者として興味深いのは、以下のような会話をウグイが僕(ハギリ)と交わす場面があること。ウグイもだいぶハギリに感化されてきたということでしょうか?(*)。
「自由への欲求が生まれるのは、どうしてでしょうか?」
「それは、たぶん、生きていることが、その状況のベースにあると思う」
「生きていることがですか?」
「いや、しかし、何をもって生きているというのか、そこがまた曖昧だ。むしろ逆かもしれない。自由を志向することが、現代では、生きていると表現される状況かもしれない」
「勝手気ままに振る舞おうとする、という意味で、先生は自由とおっしゃっているのですか?」
「気ままというよりは、気まぐれといった方がよい。」「つまり、単純な化学的、物理的反応よりも揺らいでいる」
こんな哲学的(?) な会話をするキャラクターではなかったですよね、ウグイは。


英語タイトルと章題も記録しておきます。
Are We Under the Biofeedback?
第1章 生きているもの Living things
第2章 生きている卵  Living spawn
第3章 生きている希望 Living hope
第4章 生きている神  Living God
引用されているのは、エドモンド・ハミルトンのフェッセンデンの宇宙 (河出文庫)です。

(*)
このシリーズの伝統(?) ですが、ハギリはウグイに厳しい見方というか、意地悪な見方をしていますよね。この「私たちは生きているのか?」でも、そういうところが、ちょくちょく出てきます。
それから考えると、かなり二人の関係性(?) も変わってきたのだなぁ、と感慨が...
「人はまだ戦う、命を懸ける。その生死の狭間といった境遇に、『勇気』のような夢を、いつまで見られるのだろうか。
 今の時代、勇者はどこにもいない。」(10~11ページ)
と考察しておいてから
「自分の周りを見回しても、その言葉に相応しいのは、ウグイ・マーガリィくらいだ。」
と落とすのは、ちょっと...笑ってしまいましたが。

「ウグイは首を傾け、眉を少しだけ上げた。納得がいかない、といった口の形だが、それは普段の彼女のデフォルトの顔に近い。」(12ページ)
というのも意地悪な説明ですね。


<蛇足1>
「ここは港町のはずだが、今は海は見えない。イギリスの女性の名がその街につけられている。かつては観光地として栄えたようだが、世界的に観光が下火になって久しい。
 この土地の価値も、それに応じて下落したようだ。海の反対方向には、奇妙な形の山が見える。なんというのか、上部が平たくて、普通の山のように頂上というものがない。巨大な切株みたいだった。」(16ページ)
後半の山の記述は、テーブルマウンテンのようですが、とすると街はケープタウン、となるはずですが、前半の記述からすると、街はポートエリザベス。
あれれ?
ポートエリザベスにも、テーブルマウンテンのような山があるのでしょうか?
南アフリカ在住の友人に聞いてみましたが、残念ながらポートエリザベスには行ったことがないらしく、わかりませんでした。ただ、ケープタウンとポートエリザベスの間にあるジョージというところには、テーブルマウンテンのような山があるらしいので、ポートエリザベスにもあるのかもしれませんね...


<蛇足2>
ネット上で「簡単に言えば、どんな鍵でも開けることができる万能の合鍵を持っているのです」(160ページ)という説明がなされるところがあるのですが、これってやはり真賀田四季の仕掛けたもの、ですよね。
とするとこの「富の谷」も真賀田四季の構想に含まれていた、ということでしょうか。


<蛇足3>
「人間は、自分の不利になることでも、他者を助けることがあるようです。そういう意味ですか?」
「犠牲的精神と呼ばれているね。」
「犠牲になる自分が美化された一種の倒錯です。その場合、疑似的に自身の利益になっているとも解釈できます」(267ページ)
というデボラとハギリの会話がありますが、犠牲的精神というのは感情の働きの賜物なのでどうやってデボラは観測・解釈したのでしょうね。
人間の感情の動きも、学習した、ということでしょうか。



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