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あるキング: 完全版 [日本の作家 伊坂幸太郎]


あるキング: 完全版 (新潮文庫)

あるキング: 完全版 (新潮文庫)

  • 作者: 伊坂 幸太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/04/30
  • メディア: 文庫


<裏表紙あらすじ>
山田王求(おうく)。プロ野球チーム「仙醍キングス」を愛してやまない両親に育てられた彼は、超人的才能を生かし野球選手となる。本当の「天才」が現れたとき、人は“それ”をどう受け取るのか――。群像劇の手法で王を描いた雑誌版。シェイクスピアを軸に寓話的色彩を強めた単行本版。伊坂ユーモアたっぷりの文庫版。同じ物語でありながら、異なる読み味の三篇すべてを収録した「完全版」。


伊坂幸太郎の小説は文庫になれば必ず買いますので、実はこの本、完全じゃない版(?)、文庫版も買っていました。徳間文庫から出ていたものです。

あるキング (徳間文庫)

あるキング (徳間文庫)

  • 作者: 伊坂 幸太郎
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 2012/08/03
  • メディア: 文庫


積読にしている間に、この「あるキング: 完全版」 (新潮文庫)が出まして、こちらも購入。
奥付を見ると平成二十七年五月一日。もう3年以上も経つのですね。

同じストーリーだけれど、雑誌連載版(magazine)、単行本版(hardcover)、文庫本版(paperback)を全て1冊に収録って、すごい試みですね。人気作家だからこその荒業かと思います。
買うときに、ワクワクしたのを思い出します。
同じ話を、3バージョンもかき分けている。作者がどう変更を加えていったかがわかるって、楽しいかも、とそう思ったのです。
でも今回実際に読んでみて、立て続けに同じ話を読むというのはなかなかに骨が折れる、というか、挫けそうになるなぁ、と思いました。
評論家ではないので、詳細に比べて論評を加えようとはもともと思っていませんし、そんな面倒なことしようとも思いません。冒頭の単行本版(hardcover)を読み終わった時には、この後同じ話を2回読むのかぁ、と正直ちょっとげんなり感じたりしました。

それでもさすがは伊坂幸太郎ということか、次の雑誌連載版(magazine)もしっかり楽しめましたし、続けて文庫本版(paperback)まで読み進むことができました。

さて、どれが一番印象に残っているか、というと、やはり不誠実な読者だからでしょうか、一番最初に読んだ冒頭の単行本版(hardcover)です。出会い、ということでしょうねぇ。
それぞれのエピソードもたいへん興味深く読めましたし(たとえば、ふらふらしていたのに、王求に影響されて? 野球を始める乃木のエピソードは大好きです)、上から下まで黒づくめの三人の女(=魔女)の登場も深く印象的でした。

次に収録されている雑誌連載版(magazine)には、驚いたことに魔女が登場しません。これだけでずいぶん雰囲気が違って見えます。
(あと細かいのですが、登場人物の名前に変更が加えられています。属性は同じなのに。
たとえば、バッティングセンターの親父は雑誌版では木下哲二、単行本版では(文庫版でも)津田哲二。また、王求の父が殺す相手の名前が雑誌版では大橋久信、単行本版では(文庫版でも)森久信。)

3バージョン間の大きな違いはやはり、シェイクスピア作品、「マクベス」 (岩波文庫)の取り扱いでしょう。
雑誌版では底流として流れている、というかたちでしたが、単行本版では三人の魔女など表に出てきています。文庫版では、冒頭に「マクベス」から、"Fair is foul, and foul is fair." の複数の訳例が掲げられていますし(508ページ)、文中にも「マクベス」に言及するところがあちこちに出てきます。
その意味では、どんどんあからさまなかたちに改変していっているということになります。個人的な好みは、単行本くらいのレベルにとどめてもらったほうがいいかなぁ。
たとえば文庫版で、仙醍キングスの南雲慎平太が「マクベス」を愛読していたとか、あるいは、王求の父山田亮が「マクベス」を読むシーン(635ページ)など、やりすぎじゃないかなぁ、とまで思ってしまいます。
ちなみに、シェイクスピアということでは、単行本版では「ジュリアス・シーザー」 (岩波文庫)に触れられるシーンがある(91ページ)のですが、雑誌版にも文庫版にもありません。雑誌版ではシェイクスピア自体を前面に出していませんので出てこなくても当然ですが、文庫版で割愛したのは、「マクベス」に集中するためでしょうか?

これに関連する大きな変更点だと思えるのは、王求の父が王求に暴力を振るった大橋久信(森久信)を殺すシーン。
雑誌版(355~359ページ)では三人の魔女は登場しないのですべて父の仕業になっていますが、単行本版(105~109ページ)、文庫版(610~615ページ)では父は最初の一撃を加えただけで、あとは魔女がやったことになっています。
物語の大枠というか、話の流れそのものには影響を与えない変更ですが、かなりの違いが生まれていると思います。

タイトルのキングとは、すなわち王求を指すわけですが、本文中にも示唆されるように、王求は、仙醍キングスの南雲慎平太の生まれ変わりですし、王求もまた次の世代へと生まれ変わります。
巻末に収録されている伊坂幸太郎インタビューによれば「伝記的作り話」「ある天才の人生の悲喜劇を書きたい」ということだったらしいですが、そういう流れで捉えると、別の物語を過ごしたあと、今の(「あるキング」の)人生があり、また次へとつながっていくわけで、作り話性が一層際立っていくということなのかもしれません。
また、王求を軸に群像劇的なストーリー展開をしていくのですが、王求を「おまえ」と呼ぶ謎の語り手がおりまして、不思議な読後感をもたらしてくれるのに役立っています。

それにしても、王求にとって、野球は楽しいものだったのでしょうか?
雑誌版(485ページ)、単行本版(228ページ)にあったシーンが文庫版(742ページ)で大きく書きかえられているので気になってしまいました。

僕が買った文庫本には、初回限定特典として、特別ショートストーリー封入ということで、「書店にまつわる小噺 あるいは、教訓の得られない例話」を収録?した冊子(折込チラシ?)がついています。もともと紀伊國屋書店の「キノベス」用だったものらしいですが、全文引用してもそれほど手間のかからないくらいの短さで内容もとりたてて言うほどのこともない軽いものですが、なんか得した気分ですね。

<蛇足1>
王求10歳のときの友人が、偉人の伝記を読んで抱く感想・感慨が面白かったです(48ページ、302ページ、550ページ)。文庫版から引用します。
「ただ、それよりも僕が驚いたのは、本の中には、キュリー夫人の子供の頃の話が載っており、そこに、キュリー夫人が何を思ったのかが書いてあることだった。たとえば、『その時、彼女は、お母さんのことが怖くなった』であるとか、『彼女は、二度と同じ失敗はしないと心に固く誓ったのです』であるとか、そんな風に記されている。キュリー夫人が偉くなったのは大人になってからなのに、どうして、子供の時の彼女の心情が克明に書かれているのか。それが不思議でならなかった。将来偉くなることを知っている誰かが、こまめに日記をつけるように、キュリー夫人の気持ちや出来事を記録していたのかもしれない。そう考えると今度は、寂しくなった。今の自分のまわりには、誰もいないからだ。」

<蛇足2>
「性交の後のような切なさとむなしさのまざった思いが胸にせり上がってくる」(216ページ、464ページ、717ページ)
印象に残ったので、メモしておきます。

<蛇足3>
「王求は、王になるの? 王様なの? だから、敬遠されるのかな」
「どういう意味だ」
「敬遠って、そういう意味でしょ。『うやまって遠ざける』『避ける』って。王様は、みんなに敬遠されるに決まってる」(704ページ)
文庫版にのみ登場するセリフですが、なかなか鋭いですよね。

<蛇足4>
仙台が仙醍で、東京が東郷、名古屋が名伍屋。
伊坂幸太郎の作品ではいつもこう記載されているんでしたっけ?
あまりわざわざ変える必要のない地名だと思うので、気になりました。







タグ:伊坂幸太郎
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