映画:ジョーカー フォリ・ア・ドゥ [映画]
映画「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」の感想です。
いつものようにシネマトゥデイから引用します。
---- 見どころ ----
孤独な大道芸人の男が、絶対的な悪へと変貌するさまを描いた『ジョーカー』の続編。前作から2年後を舞台に、悪のカリスマとして祭り上げられたジョーカーが謎めいた女性と出会う。トッド・フィリップス監督とホアキン・フェニックスが再び手を組む。『ハウス・オブ・グッチ』などのレディー・ガガのほか、ブレンダン・グリーソン、キャサリン・キーナーらがキャストに名を連ねる。
---- あらすじ ----
ピエロのメイクで大道芸を披露していたジョーカー(ホアキン・フェニックス)。彼の前に謎の女性リー(レディー・ガガ)が現れたことをきっかけに、彼は理不尽な世の中の代弁者となり、狂乱は世界中へ拡散する。孤独で心の優しかった男性は変貌し、次第に暴走を始める。
映画「ジョーカー」の続編です。
タイトルの「フォリ・ア・ドゥ」について、映画のHPから。
「フォリ・ア・ドゥ」とは、フランス語で「二人狂い」を意味する。
妄想を持った人物Aと、親密な結びつきのある人物Bが、あまり外界から影響を受けずに共に過ごすことで、AからBへ、もしくはそれ以上の複数の人々へと妄想が感染、その妄想が共有されること。
ホアキン・フェニックス演じるジョーカーと、レディ・ガガが演じるリーの二人です。
二人が共鳴しあって物語を牽引していきます。フォリ・ア・ドゥ、ですね。
この二人、突然歌を歌いだしたりしてびっくりするのですが、ミュージカルではないにせよ、あちらこちらで歌のシーンが出てきます。
もともとジョーカーが収容されている刑務所(刑務所内の病院?)のプログラムの一つとして行われている歌によるセラピー(?) が出会うきっかけなので、二人が歌うことは不自然ではないのかもしれませんね。もっとも周りに人がいてもお構いなしというのは周りにとっては困りものですが。
孤独な男アーサー・フレックが心中にジョーカーを宿し爆発させた前作「ジョーカー」のあと、収監されおとなしくしていたところに、フォリ・ア・ドゥ関係になるリーと出会い、ふたたびジョーカーを育てていく──と思いきや、なかなかジョーカーが出番を迎えないのがポイントなのでしょう。
前作でジョーカーが飛び出すきっかけとして暴力がキーとなっており、「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」でも同様だろう、と思って観るわけで、いざそれらしいシーンが来ると、思わずああと声が漏れそうになりました。
おもしろいなと思ったのは、アーサー・フレックの裁判を描いていること。
種々の事実を振り返るという点に加え、それによってアーサー=ジョーカーに影響を与えるので、有効な枠組みですね。
日本の裁判と違い(というほど日本の裁判を知らないですが)、アメリカの裁判はショー的要素もありますしね。
裁判の行方は、映画をご覧になってお確かめください、というところですが、アーサーの吐露シーンは観ていて複雑な気分。
そしてそれを受けての(途中いろいろあるのですが)、アーサーとリーの再会シーンもそうですね。
それにしても、もともと悪のヒーロー(アンチヒーローというのでしょうか?)であったジョーカーを、解体してしまった「ジョーカー」と「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」、大胆ですね。
<蛇足1>
本筋と関係のない疑問ですが、ストーリーを割ってしまうので、以下、色を変えておきます。
このアーサー・フレックの裁判、どういう扱いになるのでしょう? 陪審の評決が出て、それが発表されている途中で、あの騒ぎ。 発表されてはいないとはいえ、評決は終わっているので裁判は完結したという扱いになるのでしょうか?──ただ、評決を受けて裁判長が量刑を言い渡すのではと思うのですが、それはこの映画の場合無理ですよね......審理無効になるのでしょうか?
<蛇足2>
ラストシーンに出てくる青年は、アーサーと親しくしていた青年でしょうか?
あの青年は「死んだ」というようなシーンがあったはずですが......
この青年があの青年だ、というほうがタイトな物語になるように思う一方で、別の青年だとして、ジョーカーに感化される人は次から次へ出てくるのだ、という解釈も成り立つなぁ、と思ったりしています。
製作年:2024年
製作国:アメリカ
原 題:JOKER: FOLIE A DEUX
監 督:トッド・フィリップス
時 間:138分
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