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到達不能極 [日本の作家 さ行]


到達不能極

到達不能極

  • 作者: 斉藤 詠一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/09/20
  • メディア: 単行本

<裏側帯あらすじ>
二〇一八年、遊覧飛行中のチャーター機が突如システムダウンを起こし、南極へ不時着してしまう。
ツアーコンダクターの望月拓海と乗客のランディ・ベイカーは物資を求め、今は使用されていない「到達不能極」基地を目指す。
一九四五年、ペナン島の日本海軍基地。訓練生の星野信之は、ドイツから来た博士とその娘・ロッテを、南極にあるナチス・ドイツの秘密基地へと送り届ける任務を言い渡される。
現在と過去、二つの物語が交錯するとき、極寒の地に隠された“災厄”と“秘密”が目を覚ます!


単行本です。
第64回江戸川乱歩賞受賞作。
乱歩賞は、第62回の「QJKJQ」 (講談社文庫)(ブログの感想ページへのリンクはこちら)の次の第63回が受賞作なしでしたので、2年ぶりですね。
帯に「衝撃の“受賞作”なしから1年ーー。」
と書いてあって笑ってしまいました。別に衝撃ってことはないだろうと。
でも、巻末に江戸川乱歩賞の受賞リストがあるのですが、それを見ると、受賞作なしは過去3回あって、第63回が4度目なのですね。確かに、昭和46年の第17回以来、受賞作なしはなく、低調だろうとなんだろうと必ず受賞作は出ていたので、46年ぶりの受賞作なし、ですか......衝撃といってもいいのかもしれませんね。

この「到達不能極」、読むのがどんどん後回しになってしまっているうちに、もう次の第65回の受賞作「ノワールをまとう女」 (講談社)が出版されていますね......

さて、その“衝撃”の受賞作なしという事態を受けての待望の受賞作ですが、ミステリーという語をかなり広義に捉えた上でのミステリー、ですね。
SF風味の冒険小説風、といったところでしょうか。
ミステリーを推理小説だと考えると、謎らしい謎もなく(そう感じました)、伏線もなく(あったとしても、かなり見え見えであってミステリーとしての伏線とは到底いえない)、特段のサプライズもない。失格の烙印を押されても文句は言えないような感じです。
サスペンスも、それほどありませんねぇ。
また、SF風味、と書いたのは、作中に出てくる技術がどう考えても眉唾であるうえ、時代設定からしても無理があるから、SFと言い切るとSFに失礼な気がするからです。
と、こう書くと、SFとしてもミステリとしても不十分な作品でつまらないのかな、と思われるかもしれませんが、個人的にはとても楽しく読み終わりました。
過去と現在を交錯させるプロットも平凡ですが、ワクワクできました。

まず南極を舞台に物語が繰り広げられるのが楽しい。
一度行ってみたいですよね、南極。寒いのは嫌なんですが(笑)。
荒唐無稽な物語が、南極やペナンあたりだとなんとなくおさまりがいいように思えます。
ナチがやはり悪者、というのも抜群の安定感ですし。

荒唐無稽で行くなら、とことん荒唐無稽なほうがよいので、SFに失礼といった技術なんかも、いかにも二流(三流?)な安っぽさが、かえって心地よい。
むしろ、実際の科学的にはおかしなものであっても、そういうことが起こる世界というフィクションをしっかり構築したほうがよかったのかもしれませんね。現実に近いせいで、むしろ粗が目立ってしまっていますので。
(話はそれますが、ちょっと福井晴敏の「終戦のローレライ」を思い出してしまいました。福井晴敏ファンの方からは、一緒にするな、と叱られそうですけれど。)

ということで、楽しく読み終わりましたが、江戸川乱歩賞という観点で見ると、ちょっと感慨深いですね。
今までのところ全作読んでいますが、長い乱歩賞の歴史の中で、この「到達不能極」のように、ここまで意外性を狙っていない作品が受賞したのは初めてだと思うからです。
なので、この「到達不能極」の受賞が、江戸川乱歩賞の今後にどう影響するのかも気になるところですが、規定上の原稿の枚数が限られているので、意外性を放棄してしまうと、読者に印象付ける手段が、それこそプロットだったり、人物だったり、書き方だったり、と熟練の技的なものが中心になることに加え、ある程度の枚数(長さ)がないと実現しにくいものになってしまうので、新人賞という性格の乱歩賞のことですから、あまり影響ないのかもしれませんね。




<蛇足>
この作品に限らないのですが、戦争中を舞台にした小説や映画で、現代的な考え方を持った人物が登場すると違和感を覚えることが多いです。
たとえば、反戦思想を持った人。
確かに、強い反戦思想を持った人は当時にもいたでしょうし、一般的にも戦争反対と言う人が多かったのだろうと思いますが、こと日本が実際にかかわった戦争に関しては、情報操作というのかプロパガンダというのか、その結果支持している国民が圧倒的多数だったのではないかと思うのです。
現代的な視点のため、そういう人物を登場させるのは必須なのかもしれませんが、それを不自然に思われないように、そういう考えに至った経緯を丁寧に物語に組み込む必要があるのではないかと思います。
本書では戦時中の主人公である若い信之が、同盟国であるドイツの反ユダヤ政策(たとえばユダヤ人を劣等人種とすること)に怒りを覚えている設定になっています。
「信之は、基本的に押し付けることも押し付けられることも苦手ではあるのだが、本人にはどうしようもない生まれや人種に関して、偏った思想を押しつけられることに耐えられなかった。そうした考え方を持ち合わせてはいないのだった。」(81ページ)
と説明されていますが、当時の教育環境でこのような考えを持つことが自然でしょうか? 日本自体が貴族制度のある差別・区別前提の社会だったというのに。
両親が進歩的な教師だったから、と簡単に説明されていますが、納得感は少ないですね。
むしろ思いを寄せている少女ロッテがユダヤ人であることをきっかけに、そういう思いを強めていく過程をしっかり書き込んでもらったほうが納得感もあり、自然なのではないかと思うのです。
(と言いながら、乱歩賞の規定の枚数では書ききれないのかも、とも思ったりしますが)
このような思想的な面だけではなく、戦況を見通しているという設定にも違和感を覚えます。
信之は二等飛行兵曹で、学生に毛の生えたようなものなのですが、それでも一九四五年一月の段階で
「最終的な勝者となるのが自らの祖国とは、信之にはどうしても思えなかった」(162ページ)というほどの戦況把握をしているのです。
軍上層部などはともかくとして、一般には、連戦連勝という嘘を徹底していたのでは? と。





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