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厨子家の悪霊 [日本の作家 や行]


厨子家の悪霊 (ハルキ文庫―山田風太郎奇想コレクション)

厨子家の悪霊 (ハルキ文庫―山田風太郎奇想コレクション)

  • 作者: 山田 風太郎
  • 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
  • 発売日: 2022/07/24
  • メディア: 文庫

<カバー裏あらすじ>
子家夫人惨殺さる! 現場には右眼から血を滴らせた犬と、短刀を握りしめて立ち尽くす厨子家の長男・弘吉の姿が......。果たしてこれは厨子家に伝わる「悪霊」の所業なのか? さらにそこへ真犯人を名乗る者からの挑戦状が──。どんでん返しの連続で、読者に息つく間も与えぬ表題作をはじめ、単行本未収録作品『殺人喜劇MW』『天誅』、探偵作家クラブ賞受賞の名作『眼中の悪魔』『虚像淫楽』等七篇を収録。


2021年12月に読んだ3冊目の本です。
日下三蔵さん編集の短編集で「山田風太郎奇想コレクション」という副題がついていますが、ミステリを集めたものです。

収録作は
「厨子家の悪霊」
「殺人喜劇MW」
「旅の獅子舞」
「天誅」
「眼中の悪魔」
「虚像淫楽」
「死者の呼び声」
の7作。

日本探偵作家クラブ賞受賞作である「眼中の悪魔」「虚像淫楽」が傑作であることは当然かもしれませんが、7編ともいずれも優れた作品で、山田風太郎のミステリ作家としての腕を改めて見せつけられた思いです。

特に冒頭の表題作「厨子家の悪霊」がすごい。
「目の廻るほどドンデン返しをブン廻すことこそ作者の本領ではあったが」と作者が書いていたそうですが、圧巻という言葉はこの作品のためにあるように思えるくらい、圧巻のドンデン返しです。
作者はあまり強調していませんが、その中に足跡トリックが仕込んであります。
作者自身は出来栄えに満足されていなかったようですが、これは傑作だと思います。

「殺人喜劇MW」はタイトル通りコメディ(喜劇)ですが、黒い笑い、歪んだ笑いですね。

「旅の獅子舞」も皮肉な事件ですね。ここで使われているトリックは普通の作家だと大失敗作になってしまいそうですが、山田風太郎の手にかかると皮肉な小品に仕上がります。

「天誅」はどうやってこんなの思いついたの? と聞きたくなるような仕掛けで、冒頭から大陰嚢(おおきんたま)ですよ。お下劣で失礼しましたが、そういう作品なんです。

「眼中の悪魔」と「虚像淫楽」は、いろいろなアンソロジーにも採られている名作で、いろんなところで何度も何度も読んでいるのですが、毎回新鮮な気持ちで読んでいます。恐ろしいことに、内容をほとんど覚えておらず、毎回初読のようです。
今回もまっさらな気持ちで読みました。
これほどにきれいさっぱり忘れてしまっているのは、おそらく、読後まるで悪い夢を見ているような気分になってしまうからなのでしょうか。(いや、単にこちらの記憶力の問題かと)

ミステリということで落ちついて考えると、「眼中の悪魔」に出てくるある秘密は、もっとしっかりとした伏線がほしいとも考えてしまうところですが、この作品の狙いはそこにあるのではなく、解題にある通り「三段階の悪人」なわけですから、瑕とはいえません。むしろ、この「眼中の悪魔」こそが物語を悪夢に転じさせるトリガーとして効果を上げているようです。

「虚像淫楽」はSMを扱っているのですが、ポイントは当事者である夫婦とそれに加えて夫の弟である十七、八の少年の物語に、視点人物で治療にあたる千明医学士が関わってくることでしょう。
サディストなのかマゾヒストなのかという謎が、くるくると様相を変えていく様はまさに悪夢です。

「死者の呼び声」は構成が凝っています。
現実-手紙-手紙の中の探偵小説風の物語、と三層構造になっています。この構造が、解題で明かされている作者の三段階の悪人という狙い(ネタバレなので色を変えておきます)と呼応しているのがすごいところですね。

いずれも書かれたのがずいぶん前で、文章やセリフが今からしてみると時代がかって少々読みにくいのですが、そこがかえって物語の奥行きを感じさせるというか、山田風太郎独特の作品世界への呼び水となっているようです。
山田風太郎の作品は最近もまた新刊として書店を賑わしているので、どんどん読んでいきたいです。


<蛇足1>
「その最初の見せかけをひっくり返す槓桿(こうかん)としてあの仮面を利用するのだ。」(76ページ)
文脈から梃子という意味だとわかるのですが、槓桿、知りませんでした。

<蛇足2>
「弘吉はあの小屋の肥桶に水を満たした奴を二つ、一生懸命に運んで、傍の池に注ぎ捨てて来たのだ。」(77ページ「厨子家の悪霊」)
「それにみんなが一生懸命見ているのァ、お獅子の顔ばかりにきまっているから」(154ページ「旅の獅子舞」)
以前は目の敵にして指摘していた「一生懸命」ですが、昭和二十四年発表のこれらの作品で山田風太郎が使っていることをみるとずいぶん前から広まっていたのですね。

<蛇足3>
「作家や評論家のかくもののなかに、庶民とか大衆とかいう言葉やいやにふえてきたら、きっとそのくらしが庶民とかけはなれて豪勢なものになってきた証拠だとみていいようだわね」(117ページ)
ちょっとニヤリとしてしまうセリフですね。
政治家のいう「国民」も一緒でしょうね。

<蛇足4>
「つまり僕は『誰の子であるかということを知っているのは、その母親だけである』というあのストリンドベルヒの深刻な言葉を利用したのだ。」(217ページ)
『誰の子であるかということを知っているのは、その母親だけである』──なかなか深淵な言葉ですが、出所は知りませんでした。ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ、スウェーデンの劇作家なのですね。

<蛇足5>
「とんでもございません……いえ、ただちょっと思い出しただけなんです」(250ページ「虚像淫楽」)
「とんでもございません」という表現も、かなり広まっているものの元々は間違いというのが通説のようですが、こちらも昭和二十三年のこの作品で使われているので、根強い表現ですね。





タグ:山田風太郎
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