ミステリと言う勿れ (10) [コミック 田村由美]
ミステリと言う勿れ (10) (フラワーコミックスアルファ)
- 作者: 田村 由美
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2021/12/10
- メディア: コミック
<カバー裏あらすじ>
刑事・青砥の娘が誘拐され、娘を助けたければある少年を誘拐しろと犯人に要求される。
いつの間にか犯人と関わっていた整も青砥と行動を共にするが、それは8年前の未解決事件へと繋がってゆき──
整が導き出す事件の真相とは…
シリーズ10冊目です。
「ミステリと言う勿れ (10)」 (フラワーコミックスアルファ)。
episode14-3 渉猟の果て
episode14-4 円になる
episode14-5 輪舞(ロンド)
episode14-6 水際の耽溺
を収録しています。
前巻「ミステリと言う勿れ (9)」 (フラワーコミックスアルファ)からの続きになっています。
青砥刑事が巻き込まれた事件が解決まで描かれます。
手掛かり的なものは小出し小出しなので、推理するというのは無理ですし(後出しじゃんけんの連続といってもよいかもしれません)、整の見立ても、正解にたどり着いてはいるもののあてずっぽうに近い。
この点は、作者がミステリを目指しておられないのだから、あげつらってはいけないのでしょう。
それよりは、ハラハラする状況が連続してやってくる物語のうねりを楽しむべき作品なのだと思います。
今回注目したのは、やはり整のおしゃべり。
「今は 頭の中をかき回した方がいい おまえと話すのは悪くない 今だけな」
追い詰められた青砥刑事がこういうところで笑ってしまいました。
今だけな。
マンガで読むのならまだしも、ずっと直に聞かされるのは、嫌になりますよね。
今回事件の建付けに無理が多く、整たちの推理もあてずっぽうに近かったので気づいたのですが、整の長セリフ、推理の弱点を覆い隠す機能を果たしているのですね。
また、関係あるのかないのかよくわからない整の長話を聞いているうちに、関係者が、そして読者も、あれこれ勝手に考え出して、結びつけて、物語の駆動力になっています。
それにしても星座のペンダントの謎は深まるばかり......
ラストの整とライカの会話がいいですね。
<蛇足>
「あとガススタに寄ってく」
”ガススタ” という表現は見慣れなくて、立ち止まってしまいました。
調べると割と使われる表現なんですね。ガソリンスタンドのことです。
ガソリンスタンドだとガソスタになりそうですけれど(ガソスタともいうようです)。
米語だと Gas Station なので、ガス、ということかもしれませんが、そうだとすると ”スタ” は変ですね。
なんとも不思議な略語が作り出されているな、と思いました。
ちなみに、英語だと petrol station 。petrol の部分はペトロと言われていることが多い気がします。
タグ:田村由美
Q.E.D. iff -証明終了-(19) [コミック 加藤元浩]
Q.E.D.iff -証明終了-(19) (月刊マガジンコミックス)
- 作者: 加藤 元浩
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2021/06/17
- メディア: コミック
<カバー裏あらすじ>
「ドッペルゲンガー」
メキシコのマフィアに殺害された麻薬取締局の捜査官・アーチャー。彼を殺した組織のナンバー2“魔術師(ブルホ)”は、謎の魔術「ドッペルゲンガー」を使い、ターゲットを黒焦げの焼死体にしている。姿形すべてが正体不明の敵に燈馬は──!?
「春の風」
相模湾の沖合で、木曽桜という女性の水死体が見つかった。彼女は政財界の要人お抱えの占い師で、18歳年下の夫・成司が犯人として疑われている。週刊誌「ウェンズデー」でバイトをしていた可奈は、この事件を調べることになり!?
Q.E.D. iff のシリーズ第19巻。「Q.E.D.iff -証明終了-(19) 」(月刊マガジンコミックス)。
奥付をみると2021年6月です。
3年前なんですね。
「ドッペルゲンガー」は、麻薬で伸長するメキシコマフィアの話。
「奴は部下を使わず魔術で人を殺す
そいつにかかるとすさまじい恐怖の中で死ぬんだ……
噂ではその術にかかると死の間際に自分の姿を見るらしい……
みんなはその術を『ドッペルゲンガー』と呼んでいる」
といわれる謎の魔術師(ブルホ)の不気味さ、不可思議性を表すのに、「6次の隔たり」が出されていますが、そこまでのことではないのでは?と思えました。それをぶち破るのに無限連分数が持ち出されているのにはニヤリ。
実際にどういう魔術なのかははっきりと明かされないのですが、ラストのページから匂わされているのがあまりにも恐ろしくて......
登場人物たちが想像する魔術師(ブルホ)のイメージが、マスクをかぶった筋肉質の男というのがなぜか笑えました。
「春の風」は、ヨット上の事件です。
こういう周りに誰もいないという設定ですと、ヨット上で何が起こっていたのかなんて決め手がなく、どうとでも言えてしまうように思えるので、あまり好みに合いません。
この作品もその難を逃れていないと思いました。
またホストクラブに勤めていた20歳近く年下の男と結婚し溺愛していたという被害者の行動も、あまり納得感はありませんでした。
七夕刑事がゲスト出演しています。
「ねぇ 燈馬君 占い師の人が亡くなった事件ってどう思う?」
「興味ありません」
「うん! 予想通りの答え!」
「期待に応えられて嬉しいです」
という、可奈と燈馬のやりとりがとてもよかった(笑)。
タグ:加藤元浩 Q.E.D. iff
映画:ウォッチャーズ [映画]
映画「ウォッチャーズ」の感想です。
いつものようにシネマトゥデイから引用します。
---- 見どころ ----
『シックス・センス』などのM・ナイト・シャマランが製作、彼の娘であるイシャナ・ナイト・シャマランが監督・脚本を務めたホラー。地図にない森に迷い込んだアーティストが、奇妙なルールが存在するガラス張りの部屋の中で正体不明の存在に監視される。『17歳のエンディングノート』などのダコタ・ファニングが主人公を演じ、『バーバリアン』などのジョージナ・キャンベル、『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』などのオルウェン・フエレのほか、アリスター・ブラマー、オリヴァー・フィネガンらが出演する。
---- あらすじ ----
28歳の孤独なアーティスト、ミナ(ダコタ・ファニング)は贈り物を届けるために指定の場所へ向かう途中、地図にない森に迷い込んでしまう。そこで見つけたガラス張りの部屋には3人の男女がおり、彼らによると、その部屋は謎の存在によって毎晩監視されているという。そしてその部屋には、日が暮れたら部屋を出てはいけない、監視者に背を向けてはいけない、決してドアを開けてはいけないという三つのルールがあった。
M・ナイト・シャマランが製作で、監督・脚本は彼の娘であるイシャナ・ナイト・シャマランというので、だいたいの映画の雰囲気はつかめると思います。
謎めいて不穏な感じのストーリーが魅力ですね。
ミナが迷い込んだ森で、前面がガラス張りの要塞のような建物のなかで暮らす3人の男女。
夜になると彼らを ”見に” 、ウォッチャーズがやってくる。うかつに外にでれば襲われてしまう。
ウォッチャーズは昼間は活動せず、森のあちこちにある穴の中に潜んでいるよう。なので昼間は活動可能だが、一定の範囲内に限られそれを越えると襲われるらしい。
ウォッチャーズとは、なにもので、何を目的としているのか?
劇中で流れるサン・サーンス 「白鳥」が不気味な曲に思えてきてしまいます。
なんですが、ウォッチャーズの正体がわかり、彼らの狙いが明かされると、一気に冷めてしまいました。
ウォッチャーズの正体まではいいんです。
ちょっとありきたりな感じはあるけれど、こういう設定は楽しい。
だけど、このウォッチャーズの正体を前提としたとき、森の中で人間を閉じ込めて観察するという行為と、襲って殺してしまうという行為に整合性が取れていない。殺してしまわずに、なんどでも建物に連れ戻して観察を続けたほうがよいのでは? あるいは、ただただ殺すだけ。
ネタばらしにならないよう、ぼかした書き方をしますが、そもそもの観察の目的も、ウォッチャーズ自体が森の外に出られないということになっていたことと照らし合わせて考えると、目的自体が成立していないように思えてきます。ほぼほぼ人間のやってこない森に生息しているわけなので、観察の結果を使えないから。
森から逃げ出す方法をミナが見出すきっかけとなるエピソードもおかしくて(変という意味です)、ミナたちが見つけるまで隠されている理由は語られず──非常に閉ざされた環境の建物なので、もっと早い段階で(それこそミナが来るよりも前に)見つけられていてしかるべきだと思えます──、考えてもすっきりしない。
物語の根本が成立しない残念なつくりになっている、と言わざるを得ないと思いました。
主役のミナを演じるダコタ・ファニング、彼女、映画『アイ・アム・サム』でショーン・ペンの娘役だった女優さんなのですね。大きくなりましたね(笑)。
製作年:2024年
製作国:アメリカ
原 題:THE WATCHERS
監 督:イシャナ・ナイト・シャマラン
時 間:102分
<2024.6.29追記>
ポスターの画像を追加しました。
タグ:M・ナイト・シャマラン
観覧車 [日本の作家 赤川次郎]
2024年4月に読んだ12作目(13冊目)の本です。
赤川次郎のショートショート集、「観覧車 赤川次郎ショートショート王国」。
赤川次郎ショートショート王国と副題がついています。
巻末の初出誌のところに説明がついています。
「三毛猫ホームズの事件簿」(赤川次郎ファンクラブ会誌)で、会員の方から募集したタイトルに赤川次郎書き下ろしたショートショートというおもしろい成り立ちの作品です。
「散歩道 赤川次郎ショートショート王国」 (光文社文庫)
「間奏曲 赤川次郎ショートショート王国」 (光文社文庫)
「指定席 赤川次郎ショートショート王国」 (光文社文庫)
「招待状 赤川次郎ショートショート王国」 (光文社文庫)
に続く5冊目。
さすが大人気作家赤川次郎、長続きしていますね。すごい。
ある日のデパート/大きな落とし物/謎の老人/真夜中の遊園地/真冬の夜の夢/猫カフェの初夢/偶然の過去/猫の忘れ物/死者からのスコア(楽譜)/過去からの招待状/伝説の〈老眼〉バンド/いつもと違う日曜日/おとぎ話の忘れ物/孤独な魔法使い/自宅待機の名探偵/にぎやかな図書館/名探偵よりも犯人になりたい/名探偵は入れ替わる/話を聴かない刑事/出さなかった手紙/三人の死神/世界一の平和戦争/名探偵はご立腹/非行中年/夜の動物園/招かない招き猫/遅れてきた花婿
の27作品。
自宅待機の名探偵/名探偵よりも犯人になりたい/名探偵は入れ替わる/名探偵はご立腹
と名探偵が使われているタイトルが4つもあります。
名探偵、みんな好きですからね。
赤川次郎も大量に(!) 名探偵を創造していますが、このショートショート集には出てきません。
さらッと書いてありますが(そしておそらく赤川次郎のこと、さらっと書き上げてしまうのだろうと思うのですが)、他人が決めたタイトルを前提に、短い中でさっと山場なりオチなりをつけて物語を完成させる手腕はさすが。
物語の傾向も種々様々で、濃淡もきっちりついているように思いました。
赤川次郎は、シリーズものも多いですが、ショートショートも素晴らしいですね。
<蛇足>
「大学で勉強した経済学や哲学は何の役にも立たなかった。」(25ページ)
経済学と哲学を学ぶって、何学部だったのでしょうね?
タグ:赤川次郎
馬鹿と嘘の弓 [日本の作家 森博嗣]
<カバー裏あらすじ>
探偵は匿名の依頼を受け、ホームレス青年の調査を開始した。対象は穏やかで理知的。危険のない人物と判断し、嵐の夜、街を彷徨う彼に声をかけた。その生い立ちや暮らしぶりを知るにつれ、何のために彼の調査を続けるのか、探偵は疑問に感じ始める。
青年と面識のあった老ホームレスが、路上で倒れ、死亡した。彼は、1年半まえまで大学で教鞭を執っていた元教授で、遺品からは青年の写真が見つかった。それは依頼人から送られたのと同じものだった。
2023年4月に読んだ11作目(12冊目)の本です。
森博嗣の「馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow」 (講談社ノベルス)。
しばらく積読にしている自覚はあったのですが、奥付を確認すると2020年10月。もう4年ほど前になるのですね。
すでに文庫化されています。書影はこちら。
あらすじには「探偵は」と書かれていて名前が出てきていませんが、おなじみ (?) の小川令子と加部谷恵美です。
Xシリーズ以来の登場ですね。
Xシリーズは、6作のうち後半の3作の感想を書いています。
Xシリーズが割と普通のミステリに近かったので──という言い方は変ですが、普通に(?)事件が起こって、探偵が出てきて、トリックや仕掛けを暴き謎を解く、というミステリだったので、同じ探偵たちが登場するこの新しいXXシリーズも同様かな、と思って読んだら......まったく違いました(笑)。
ホームレス青年の調査、だったものが、そのベースは外さないものの、どんどん捩れていく。
調査を始めれば、その対象に興味がわく、というのは通常のことかと思います。
それでどんどん調べていって、さらに興味がわいて......この流れがとてもスムーズに、小川令子と加部谷恵美の思索やディスカッション(大げさな用語ですが、森ミステリィのこと、そういいたくなる感じがします)をはさんで、描かれていく。
ところが最後に連れていってくれる場所は、えっ? そっち? と驚きました。
タイトルの「馬鹿と嘘の弓」には、英語で Fool Lie Bow とつけられています。
「馬鹿と嘘の弓」をそのまま訳したものですが、音読すると、フーライボウ=風来坊というわけですね。
馬鹿も嘘も弓も、この作品の重要なキーワードです。
馬鹿というのは、ここが象徴的ですね。
「酒は飲みません。正気を失うような危険なものが、何故堂々と売られているのか理解できません。責任能力を失うために、皆さん飲まれているのでしょうか?」(306ページ)
「その……、君の言う馬鹿というのは、どういう意味だね? もう少し話してくれないか」
「自分たちが何を目的に生きているのかを考えていない、いわば家畜のような人間だという意味です。誰かに生かされている状況です。社会に飼われている。自力では生きることができません。ときどき無礼講で発散できる場所を与えられ、酒も安く買えるように設定されていますから、ああするように仕向けられているのです。それに気づかず、自分たちが好き勝手にしている、と思い込めるのがバカだということです。」(307ページ)
風来坊というのは調査対象の青年のこと、ですね。うまい語呂合わせだと思います。
この作品のクライマックスに据えられている出来事(とぼかして書いておきます)は、世の中に似たような実例がいくつかあり、よくその原因を探る作品もあれこれ書かれているようですが、この「馬鹿と嘘の弓」に似た角度のものはあったのでしょうか?
そんなに特異な考え方ではないと思うのですが、このような出来事と結びつけたものがぱっと思いつきませんでした。
さておき、このシリーズはどこへ向かうのでしょうか?
どういうベクトルを持つシリーズなのか、楽しみではあるのですが、ちょっとこちらの好みからは外れていきそうな予感......
<蛇足1>
「君って、案外抜け目がないな」
「憎めないでしょう? だいたい、みんなから言われます」
「違うって、抜け目がないって言ったの」
「抜け目がないっていうのは、抜けているところがないのだから、賢いっていう意味じゃありません?」(86ページ)
森博嗣の小説で、興味を引く会話を挙げていけばきりがないのですが.....
ここは笑ってしまいました。
<蛇足2>
「私も考えませんね、そういうことは。自分には関係ない、とまでは思いませんけれど、でも、自分が考えることではない、誰か、専門の人が考えてくれて、法律や制度を作ってくれるんだろうって、頼り切っているわけですよ、勝手に」
「それはね、人間というのは、そうやって個人個人でノルマを分担するんだ、と納得しているからでしょう? それが社会の一員になるということじゃない。社会を信頼するのと同じことのような気がする」
「ですよね」加部谷が頷く。「仕事だって、そうじゃないですか。自分にできることを、各自がして、少しずつ社会全体のノルマを分担している。うん、だから、やっぱり、働かないというのは、いけませんね」(196ページ)
こういう風に考えていったことはありませんでしたが、こういう整理はありですね。
<蛇足3>
「大学教授の方が、まともじゃない人が多い気がする」小川が言った。「ちょっと変わっているというか、癖の強い人ばかりじゃない?」
「癖を隠さなくても生きていける世界なんですよ、きっと」(197ページ)
これを書いている森博嗣が大学教授だったという......(笑)
映画:関心領域 [映画]
映画「関心領域」の感想です。
いつものようにシネマトゥデイから引用します。
---- 見どころ ----
第2次世界大戦下のアウシュビッツ強制収容所所長とその家族を描いたマーティン・エイミスの小説を原案にした歴史ドラマ。収容所の隣で穏やかに暮らすルドルフ・ヘス所長一家の姿を通して、それとは正反対の収容所の残酷な一面を浮かび上がらせる。監督は『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』などのジョナサン・グレイザー。出演は『ヒトラー暗殺、13分の誤算』などのクリスティアン・フリーデルや『落下の解剖学』などのザンドラ・ヒュラーなど。
---- あらすじ ----
ナチスドイツ占領下にあった1945年のポーランド。アウシュビッツ強制収容所で所長を務めるルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)と妻のヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)は、収容所と壁を隔てたすぐ隣の家で暮らしていた。収容所からの音や立ち上る煙などが間近にありながら、一家は満ち足りた日常を送っていた。
映画のHPから紹介文も引用しておきたいと思います。
空は青く、誰もが笑顔で、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から煙があがっている。時は1945年、アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた。第76回カンヌ国際映画祭でグランプリに輝き、英国アカデミー賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞、トロント映画批評家協会賞など世界の映画祭を席巻。そして第96回アカデミー賞で国際長編映画賞・音響賞の2部門を受賞した衝撃作がついに日本で解禁。
マーティン・エイミスの同名小説を、『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』で映画ファンを唸らせた英国の鬼才ジョナサン・グレイザー監督が映画化。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わすなにげない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。その時に観客が感じるのは恐怖か、不安か、それとも無関心か? 壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らの違いは?
数々の賞を受賞し、米アカデミー賞では国際長編映画賞・音響賞を獲得した作品です。
非常に恐ろしい映画で、観ていてとても怖くなりました。
上で引用したあらすじや、映画の予告編などで明らかですが、第二次世界大戦当時アウシュビッツ収容所の隣で生活していたルドルフ・ヘス所長一家の穏やかな生活を描いています。
塀を隔てた向こうの収容所で何が行われているのかは直接的には描かれていませんが、声、音(特に銃声)や煙突から立ち上る煙から、(すでに歴史的事実を知っている我々からすると)容易に想像がつくようになっています──映画に匂いがなくて本当に良かった。
そして、おそらくこの平和な家族も知っている。なにしろ、収容所長一家なのですから。
冒頭、ユダヤ人から奪い取った衣服が家に届き、家人(召使含め)で分け、嬉々として毛皮のコートを試着するシーンがあり、そのうえ口紅(! 誰が使ったものかもわからないのに、直接口にする感覚がおそろしい) まで試してみるシーンは、とてもおぞましく感じましたが、そういうことが日常に普通に取り入れられていることが分かってしまいます。
「落下の解剖学」(感想ページはこちら)主演のザンドラ・ヒュラー演じる、収容所長ヘスの妻が丹精込めて作った(というか作らせた)庭や家庭菜園、温室やプールが美しければ美しいほど(そしてポーランド内陸部にあるアウシュビッツは冬は極寒の地となることを考えると──作中にも「赴任してきてすぐにセントラルヒーティングを入れさせた、冬はとても寒くなるから」と言うシーンがあります──一層そこに注ぎ込まれた労力までもが恐ろしくなります。
なによりも、この普通の幸せそうな一家(実態はそうでもないことがわかりますが)の平穏な暮らしぶりを見ていると、ひょっとして自分も同じような境遇に置かれたら、同じように美しく暮らしてしまうのでは? と考えてしまうのが一番怖い。
その意味では、製作者の狙い通りで、いろいろと考えさせられたのですが、果たしてこの映画はいい映画か、と言われると、素直にはそうだと言えない気がしています。
まず、ドラマチックな出来事は起こりません。
淡々と、あくまで淡々と、ぱっと見は一般的な家族の一般的な生活のみ、です。
ユダヤ人を効率的に虐殺する方法を考えるシーンも、ユダヤ人のためにりんごを隠す少女(?) のシーンも、そのりんごをめぐって収容所内のユダヤ人間で争いが起き銃殺され(たと思われ)るシーンも、ユダヤ人を忌み嫌うことを象徴するようなシーンの数々も、直接的でなく描かれているように受け取りました。
物々しい重低音の音楽──というよりも効果音というべきでしょうか?──もそうです。
アウシュビッツ収容所を知っている観客が考えること、想像することに委ねられている、というよりも、完全に依存しているように思えます。
はっきり言ってしまえば、この舞台がアウシュビッツ収容所の隣でなければ、退屈至極な物語です。それが製作者の狙いだとしても。
ここで、製作者の狙いというのは、ただアウシュビッツを描くことではなく、そこがアウシュビッツでなくとも、隣にいる人間の ”関心領域” のありようによっては、あたかもそれが存在しないかのようにふるまってしまう人間を描くことを目指していると思われるからで、本来世の中にある問題の数々をこの映画のアウシュビッツに置き換えて考えるべし、ということかと思います。問題は確かにあるのに、知らないふりをして、気づかないふりをして、あるいは本当に無関心で何も気づかずやり過ごし、自分だけ平穏な暮らしをしていないか?
そういう狙いの映画だとしても、コンセプト一発勝負の映画のような気がして、言い換えると、いわゆるお笑いの世界でいうと、出オチに近いのではとも思えて、映画作品とした場合に、これでいいのかな、と思えてしまいました。
ラストシーンも座りが悪いように思いました。
<ある意味ネタばらしになっていますので、気になる方は次の行空きまで飛ばしてください>
突然現代に画面が切り替わります。
主要人物であるヘス所長が幻視したかのような流れになっていて、現代のアウシュビッツ収容所で清掃が行われているシーンとなります。
実はアウシュビッツ収容所は訪れたことがあり、その際、この映画のラストシーンに出てくるガス室[だと思いました]やガラス張りの展示室なども見ました。実際見に行った際は、この展示室で気分が悪くなり、この映画のラストシーンではそのことを思い出し、恐ろしさ、気持ち悪さがぶり返しました。
このシーン、とても解釈が難しいシーンで、ここでも様々な捉え方が可能なシーンではあるのですが、それまでのトーンと一転していますし、ヘスが幻視する理由? 動機づけ? もわかりません......
坐りが悪いと言えば、ヘスの妻の母の扱いもそうです。
ヘスの家に一緒に住むようになるこの母親。最初は自分の娘が作り上げた家、環境の(一見したところの)素晴らしさに感嘆していたのですが、当然、隣の収容所を意識するようになり、逃げ出してしまいます。
この母親は、耐え難いと思って逃げ出すのですから、今の私たちからみて、理解しやすい。
ヘスという実在だった人物の家族を描いているので、事実こうだったのかもしれませんが、劇中にこの母親が登場することで、ヘス一家の”普通の人”感が減じてしまっています。
観客は、気持ち悪くなり逃げ出した母親のような人物こそ、当時だって ”普通” なのだ、と安心できてしまいます。ヘス一家は異常だったのだ、と。収容所の横で、普通の人なら、あんな平穏な生活を送れたりしない。あれはヘス一家が異常だったからだ。私(たち)は違う.....そう考えることができてしまう。これは、おそらく映画の狙いと相反する要素のように思えます。
最後に、冒頭に掲げたポスター、いいですね。
真っ暗で、その下はヘスの家の庭。プールも人々がガーデンパーティをやっているよう。
劇中にはこんなシーンはありません。
ガーデンパーティが開かれるのは、爽やかな青空の下です。そこをあえて闇にしてるわけですね。
黒いので街中で展示するにはどうかな、と思ったりもしますが、映画にふさわしいかも。
うだうだ書き連ねましたが、いろいろと考えるところの多い映画で、衝撃作、問題作、であることは間違いなく、広く話題を呼べばいいとは思いました。
製作年:2023年
製作国:アメリカ/イギリス/ポーランド
原 題:THE ZONE OF INTEREST
監 督:ジョナサン・グレイザー
時 間:105分
<2024.6.17>
画面が変になっていたのを修正しました。
失礼しました。
命取りの追伸 [海外の作家 は行]
2024年4月に読んだ10作目(冊数だと11冊目)の本です。
単行本で、論創海外ミステリ112。
ドロシー・ボワーズの「命取りの追伸」 (論創海外ミステリ 112)。
ドロシー・ボワーズの本を読むのは初めてです。
どうやらこの作品が本邦初紹介だったようですね。
お金持ちの老婆が殺されるという典型的なクラシックな本格ミステリです。
この老婆、ミセス・コーネリア・ラックランドというのが、なかなか狷介な性格で、ミステリらしくていいですね。
遺言を書き換えようとしていた直前に殺される、というのもいい。
登場人物がそれほど多くないのですが、犯人の隠し方(というのでしょうか?)、あるいは動機の隠し方をなかなか面白く感じました。
犯人の登場シーンでは、アンフェアにならないように、非常に気をつかった書き方がなされているのもポイントですね。
犯人の決め手(の一つ)となるのは、タイトルになっている追伸。
匿名の中傷の手紙に書かれていた追伸で、英語で中傷の手紙は poisoned letter なので、原題の Postscript to Poison というのは、このことを指すものと思われます。
この手がかりは、全体のバランスからちょっと見え見え感漂うのが惜しいところですが、手堅いと思います。
他の作品もこのあと訳されていますので、読んでみようと思っています。
最後に、論創海外ミステリではよくあることですが、この作品も翻訳がかなり......
まあ、それでも、いままで紹介されていなかったいろいろな作品を、日本語で読めるようにしてくれているので、感謝しております。
<蛇足1>
「さて、ここを見てください」パードウ警部は上機嫌にさえぎった。(97ページ)
このあとのセリフを見ても、「見る」ようなことには触れられていません。
原語を見ずにいうのはあれですが「おいおい」に近い呼びかけ、あるいは「ちょっと待ってください」くらいの意味ではなかろうかと。
<蛇足2>
「そして、これで、ようやく本件に終止符を打てるだろう。だが、まず最初にやらなければならないことがたくさんあった。」(322ぺージ)
最初にやらなければならないことがたくさんある、というのはおかしいのですが......
<蛇足3>
「殺人を行う前に、私は殺人の罪に問われてはいませんか?」(325ページ)
どういう意味でしょう?
原題:Postscript to Poison
著者:Dorothy Bowers
刊行:1938年
訳者:松本真一
記憶の果て [日本の作家 あ行]
<カバー裏あらすじ>」
父が自殺した。突然の死を受け入れられない安藤直樹は父の部屋にある真っ黒で不気味な形のパソコンを立ち上げる。ディスプレイに現れた「裕子」と名乗る女性と次第に心を通わせるようになる安藤。夕子の意識はプログラムなのか実体なのか。彼女の記憶が紐解かれ、謎が謎を呼ぶ。ミステリの枠組みを超越した傑作。<上巻>
実際に存在した「裕子」は十八年前すでに自殺していると安藤に告げる母。父は自殺した娘の生まれ変わりとして、コンピューターにプログラムしたのではないか? 安藤は脳科学を扱う父の研究所や、裕子の本当の母親の元を訪ね回る。錯綜する人間関係が暴かれる衝撃的結末は、凡百のミステリーの常識を破壊する。<下巻>
2024年4月に読んだ9、10冊目の本です。
浦賀和宏「記憶の果て」(上) (下) (講談社文庫)。
浦賀和宏のデビュー作で、第5回メフィスト賞受賞作です。
購入した版の帯には
追悼──浦賀和宏さん
ミステリと奇想に彩られた唯一無二の小説の数々は、これからも私達の心のなかに。
と書かれています。
2020年に、まだまだ若くしてお亡くなりになった作家さんです。
本書、メフィスト賞を受賞し、最初に
ノベルス版で出たときにすぐに購入し読んでいるのですが、例によって、記憶に残っていませんでした。
印象として ”青い” 作品であった記憶のみ。青春期の痛さが強く出た作品だった印象です。
大幅改稿の上文庫化された後、しばらく入手困難な状況が続いていたのですが、講談社文庫から新装版が出て、シリーズ第2作、第3作もあわせて文庫になったので、再読のいい機会かな、と。
今回読み返してみて、青春の痛さについて再確認。いい痛さも悪い痛さもあふれた作品でした。
祖霊がの部分を覚えていないのは、その痛さが強烈であるから、ということもあるとは思うのですが、ひょっとしたら当時理解できなかったからではないか、と過去の自分に疑いを持ちました。
森博嗣のWシリーズ、WWシリーズを読み進んでいる今では、本書の内容をするりと理解できますが(正しくは、理解できたように思えますが、でしょうけれど笑)、当時ベースとなる知識もなかった頃、本書をちゃんと理解できていたかどうか......
たとえば下巻72ページから展開される部分など、さっと理解したつもりでいただけだったのでは?
全体として、記憶や人工知能といった素材に、ちょっとした(でも効果絶大な)ひねりを加えているところが見どころかと思いました。
悩める青年というか自我を扱いかねている青年という、青春小説の一大テーマといえる要素から、こちらのテーマへとつなげて見せた構想がとてもいいな、と思いました。
鬱屈した青年という安藤直樹の肖像は、こちらのテーマにぴったりですね。
タイトルの「記憶の果て」。
文中に出てくるのは下巻の316ページと最終盤。
上で書いたひねりがもたらす衝撃からくる主人公・安藤直樹の心境につながるもので、果て、というべきものなのか少々疑問は残りますが、いい感じだと思いました。
<蛇足1>
「アメリカなんかはロボットの開発にあまり積極的ではないね。ロボットという言葉は、チェコのカレル・チャペックという作家の造語なんだけどね。そのロボットの語源がなんだか知っているかい」
「いいえ」
「ロボットの語源はね……ロボタっていうんだ。そのロボタの意味は……奴隷だ」(下巻61ページ)
奴隷だったのですね、ロボットは。
<蛇足2>
「さっき飯島君は言ったね、鉄腕アトムは創れるのかと。確かにアトムのように、強力な武器を備え、人間と同じような喜怒哀楽を持ち、そして正義の為に戦うロボットを創るのは並大抵のことではない。でもね、今の日本のロボット研究にたずさわっている科学者の殆どは、幼い頃に鉄腕アトムのアニメや漫画を見て育っているんだ。彼等は子供心にも思っただろうね、大人になったらアトムを創るんだと。そして実際そういう子供達が大人になってロボットを創っている。だから日本はロボット開発で世界一なんだ。」(下巻62ページ)
上の蛇足1に続いて語られる台詞です。
奴隷ではないロボットを創るという意気込みはとてもいいですね。
<蛇足3>
「快楽など覚えてなった。心地よさなど覚えなかった。ただ、この俺との不器用すぎるセックスの所為で浅倉に嫌われないだろうかという不安だけが、頭の中を支配していた。」(下巻285ページ)
不可能犯罪課の事件簿 [海外の作家 や行]
<カバー袖あらすじ>
ニューヨーク市警殺人捜査局不可能犯罪課。
不可能犯罪を専門に扱うその課の主、ポール・ドーンが歴史上の謎を見事に解く「皇帝のキノコの秘密」ほか、〈ブロンクスのママ〉シリーズで有名なジェイムズ・ヤッフェによる〈不可能犯罪課〉シリーズ全6編。
さらに、ノンシリーズ2編と、本国版EQMM掲載時にエラリー・クイーンが寄せたコメントを全編に収録。ヤッフェの才気とクイーンの名編集長ぶりをご堪能あれ。
2024年4月に読んだ8冊目の本です。
単行本で、論創海外ミステリ92。
ジェイムズ・ヤッフェの「不可能犯罪課の事件簿」 (論創海外ミステリ 92)。
以下の8編収録です。
「不可能犯罪課」
「キロシブ氏の遺骨」
「七口目の水」
「袋小路」
「皇帝のキノコの秘密」
「喜歌劇殺人事件」
「間一髪」
「家族の一人」
「喜歌劇殺人事件」までの6編が不可能犯罪課シリーズ、あとの2編はノンシリーズです。
不可能犯罪課シリーズは、ジェイムズ・ヤッフェがわずか15歳のときに書いたデビュー作「不可能犯罪課」から始まる諸作を指します。
不可能犯罪となるトリックを中心に15歳で物語を書き上げるなんてすごい! とは思うのですが、その眼鏡を取り払ってしまうと、やはり厳しい諸作と言わなければなりません。
あまりにも大きなミスのある「袋小路」ほどではないにせよ、あまり高くは評価できないと思います。
そんな中では不可能犯罪のアンソロジーにも収録されることのある「皇帝のキノコの秘密」が一番の出来かと思います。
衆人環視の中、皇帝をどうやって毒殺したのか、という謎がスマートに解決される作品です。
この短編集の特長は、雑誌「EQMM」に掲載された際ついていた、エラリー・クイーンによるルーブリックも収録されていることです。
これが、おもしろい。
ある意味(失礼ながら)拙いと言ってよさそうな作品群も、クイーンのルーブリックの道案内で読み進むと作品単体ではない味わいが出てきます。
特にミスの大きい「袋小路」とその後のルーブリックを読むと、作家がどうやって成長していったのか、あるいは編集者が作家をどうやって成長させたのか、が感じられます。
とてもおもしろい。
なんだか、ヤッフェの親戚のおじさんにでもなった気分で、ヤッフェの成長を見守っている気分。
作品の出来栄え以上に、なんか楽しかったですね。
残りの2編「間一髪」と「家族の一人」はノンシリーズで、不可能犯罪を扱ったものではありません。謎解きミステリではなく、サスペンスですね。
解説で飯城勇三は、「間一髪」について
「初の邦訳となる本作は、名探偵が登場しないサスペンスもの──というよりは、ミステリ要素のある文学と言える。」
と書いています。
文学的だからいいという風には微塵も思いませんが、この両作品は、不可能犯罪課の諸作との差がとても大きく、作家の成長を強く感じられました。
おそらく、ですが、「間一髪」あるいは「家族の一人」を単独で読んだのでは得られない感慨を、短篇集「不可能犯罪課の事件簿」としてまとめられた結果得ることができたように思います。
この本をまとめてくださった方々に感謝です。
<蛇足1>
「完璧な動機が細い帯封でぴちっとそろえられ、彼の膝にどんと振り込まれているといった例もそうあるものではない。」(19ページ)
たとえとして現金の帯封を出してきていると思いますが、そうすると、膝に振り込むって?? と銀行振込を連想して考えてしまいましたが、振り込みって別に銀行振込に限った語ではありませんね。
<蛇足2>
「ぼくもあなたと同じように、どうしても日本人が憎いんですよ」(58ページ)
被害者が日本人で、この作品が発表されたのが1944年ということで、時代を考えると仕方ないのかもしれませんが、やはり読んでいて気持ちの良いものではありませんね。
<蛇足3>
「エイヴォンの歌人として称えられつづけるシェークスピア。」(73ページ)
おそらく原語は poet で、歌人でもいいのでしょうが、どうして詩人と訳さなかったのでしょうね?
<蛇足4>
「七口目の水」は衆人環視の演台でコップの水に入れられた毒により殺される事件を描いているのですが、講演の演者を紹介する老婦人と、その後講演する演者が、同じコップから水を飲んでいるように思われるのですが、そんなことあります?
<蛇足5>
「いわゆる社会の柱石ってやつでね。社交界のお歴々の一人だし、株式取引所の会員でもある。そのほか、エルクス慈善保護会、フリーメーソン、ロータリー・クラブ、全米生産者協会、そして、優に十を超す慈善団体、評議会、委員会などに顔を出している。」(98ページ)
フリーメーソンって、こういう並びにすっと入ってくるのですね。
<蛇足6>
「若きヤッフェ氏は(本誌編集者の消極的な手助けのもとで)物理法則を打ち砕いてしまいました。」(119ページ)
英語の文章として ”消極的な手助け” というのは分かるのですが、日本語としては極めて不自然ですね。
<蛇足7>
「ひょろ長く骨ばった生き物が、眼鏡の奥に痩せた顔を覗かせ、戸口からこちらをじっと睨んでいる。男にするか女にするか迷っていた神が、どうしたものかどちらつかずのものを創造してしまったらしい。それでも、その格好から、かろうじて女性であることがわかる。戸口の生き物は、ごく一般的な正看護婦の制服に身を包んでいたからである。」(124ページ)
なんともひどい形容のされかた......
<蛇足8>
「クラウディウス帝のキノコですよ」ポールは答えた。「ぼくに解いてみろとおっしゃった歴史にまつわるクロスワード・パズルですね」(125ページ)
さすがに、約二千年前に起きた毒殺事件は、”クロスワード”パズルではないと思うのですが......
原題:The Case Book of Department of Impossible Crimes
著者:James Yaffe
刊行:2010年(日本独自編纂の短編集だからですね)
訳者:上杉真理
バイリンガル [日本の作家 た行]
<カバー裏あらすじ>
アメリカで三十年前に起きた母娘誘拐事件。複数の死亡者が出たその凄惨な事件の舞台となった大学町を避けるように、永島聡子は日本に帰ってきた。事件の生き残りだった当時三歳のニーナと同じ名前の女性を、一人息子の武頼(ぶらい)が自宅に連れて帰ったことから聡子は解決した事件の真相に三十年ぶりに向き合うことに──。暗号を駆使した傑作本格推理小説。
2024年4月に読んだ7冊目の本です。
高林さわの「バイリンガル」 (光文社文庫)。
第5回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞作。
言語学、音声学をミステリーに持ち込んだ意欲作で、ことばの拙い幼女の発した言語から、本来の意味をつきとめようとするくだりはとても興味深く、面白かったです。
また、誘拐事件をめぐる真相もよく練られているなと思いました。
359ページで明かされるイコール、マイナス、プラスというダイイング・メッセージの謎解きもとても印象的で素晴らしい。
ただ、物語の外枠がどうもすっきりしない印象です。
あらすじにもあります通り、
アメリカで三十年前に発生した母子誘拐事件の生き残りである当時三歳の女性ニーナが、事件の当事者(居合わせた?)主人公聡子のところへやってくる。聡子にはどうやら隠しておきたいことがあるらしい。
ニーナは本物か? と疑う割にはあっさり本物認定されます。
そして過去を回想する聡子とニーナ。
先ほど申し上げた通り、過去の誘拐事件はいろいろと読みどころがあってよかったです。
でも、外枠の物語=回想するという枠組みと聡子が隠しておきたいことと関係がある部分、必要だったでしょうか?
エンディングとも絡むのですが、爽やかな方向に持ち込んでいるものの、個人的に好みではないエピソードが展開しますし、なくてもミステリとしての物語は完結できるので、なかった方がよかったのでは、と思いました──はっきり言い切れるわけではないのですが、事件を回想するためだけに作られたエピソードであるような気がしてしまうんですよね。
だからなのか、ニーナの年齢設定も疑問。いま33歳とは思えません......20代前半くらいのイメージではないでしょうか?
これは聡子の子である武頼を一定の年齢にしておく必要があるから、ニーナの年齢もかさ上げされたのでは?とつい勘ぐってしまいます。
とはいえ、力のこもった力作だと思います。
このあと作品は発表されていないようですが、読んでみたいですね。書いてほしいです。