真夏の日の夢 [日本の作家 さ行]
<カバー裏あらすじ>
演劇サークルの活動費を捻出するため、心理学部の教授が行う奇妙な実験に参加した大学サークルのメンバーたち。外界との接触を遮断されて、一ヶ月間、ひとつ屋根の下で過ごすことになった彼らは、「お風呂が狭い」、「部屋の壁が薄い」、「外の空気を吸いたい」と文句を言いながらも、文化祭前夜のような日々を、それなりに楽しみながら過ごしていた。しかし実験開始から6日目、サークルのアイドル的存在の雪姫が、忽然と姿を消して・・・・・。
2024年9月に読んだ12冊目の本です。
静月遠火「真夏の日の夢」 (メディアワークス文庫)。
先日読んだ駄犬の「誰が勇者を殺したか」 (角川スニーカー文庫)同様、ネット上でかなり評判がよかったので読んでみました。
うーん、個人的には微妙な感じ。
クローズドサークルを作るのに、心理学の実験を持ち込んだのはアイデアですね。
閉じ込められた状態(自ら、なので、閉じこもったというべき?)の演劇サークルの面々で繰り広げられる日常(ちょっと変わった日常ですが)のシーンが続きます。
これが、とても長く感じました。
外に出てはいけない実験のさなか、メンバーが一人いなくなり、続けてもう一人......
なにが起こっているのか。
ミステリとして非常に気を使った書き方をされていることはよくわかるのですが、うーん、使われている仕掛けがなんとも......
すでにありふれたアイデアでして(最初に読んだ、このアイデアを使った作品は日本の短編であるアレでした。海外では、翻訳に致命的な欠陥があると長らく指摘されていて、その後新訳が出たアレが最初でしょうか? 海外のアレは1959年、日本のアレは1956年のようなので、日本の方が若干早かったみたいです)、まあ正直意外性に欠けるうえ、技巧を凝らしたというよりは、安直に騙したという風情が漂うのが難点かな、と。
伏線も張られてはいるのですが、圧倒的に少ないように思います。もっともっと伏線が必要ではないでしょうか。さらにいうと、露骨なものであることが望ましい。
裏で隠されている事件も、終盤の謎解き段階で急に明かされることで意外感が損なわれてしまっているような気がしました。
生肉が放置されて腐るというエピソードはとても秀逸で、深く感心しましたし、探偵役の設定もなかなか面白い。
静月遠火は、「何かの家」 (メディアワークス文庫)が話題になっているようですので、そちらに期待します。
タグ:静月遠火
ぼぎわんが、来る [日本の作家 さ行]
<カバー裏あらすじ>
“あれ”が来たら、絶対に答えたり、入れたりしてはいかん──。幸せな新婚生活を送る田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。それ以降、秀樹の周囲で起こる部下の原因不明の怪我や不気味な電話などの怪異。一連の事象は亡き祖父が恐れた “ぼぎわん” という化け物の仕業なのか。愛する家族を守るため、秀樹は比嘉真琴という女性霊能者を頼るが・・・・・!? 全選考委員が大絶賛! 第22回日本ホラー小説大賞<大賞>受賞作。
2024年8月に読んだ8冊目の本です。
澤村伊智の「ぼぎわんが、来る」 (角川ホラー文庫)。
第22回日本ホラー小説大賞受賞作
まずもってタイトルの ”ぼぎわん” とは何か?
意味が解らない状態で読んで、割とすぐに『bogeyman』(ブギーマン)が引き合いに出され(69ページ)、海を渡ってやってきた妖怪という説明がなされてちょっと笑ってしまったのですが、いやいや、ちっとも笑いごとではない。
霊能者が逃げ出すくらいのものですから。この化け物はかなり強力ですね。
ミステリの隣接ジャンルということで、怖いものは得意ではないのに、日本ホラー小説大賞の作品も割と読んできているのですが、これは正統派の怖さですね。
鏡を怖れるという性質も、古典的だけど怖い。
3章に分かれていてそれぞれ視点人物が変わるというのも、第1章の冒頭のシーンが第1章のラストのシーンと重なるというのも、怖さを際立たせているように思いました。
ぼぎわんの正体に関する謎解き的な部分は、ホラー愛好家の方からはひょっとしたら理に落ちすぎると批判があるのかもしれませんが、ミステリ好きからしますと、伏線的なものがしっかりとばらまかれているのでしっくりきましたし、この作品の場合は理に落ちることで、怖さ、哀しさが強調されたように思います。
たとえば、重要なパーツとして、子宝温泉が登場しますが、314ページあたりからの子宝温泉をめぐる考え方(「子宝温泉がどうなろうと知ったことではなかったが」と恐ろしいコメントも登場します)も、ああなるほどと思うと同時に背筋が寒くなる思いでしたし、ラストの対決シーンにおける解釈の哀しさ、つらさは相当なものだと思いました(352ページあたりは見事だと)。
澤村伊智さん、かなりミステリセンスのある作家さんのようにお見受けしましたので、一度、ホラーではないガチガチのミステリを書いてみていただきたいな、と思いました。
<蛇足>
「何を今更言うてんねんな。あんなえらいもん、呼ばな来(こ)ぉへんやろ」(113ページ)
兵庫県の山寺の住職のセリフです。
「こぉへん」にニヤリ。
標準語でいう「来ない」は、関西では地方によって言い方が異なります(最近はテレビの影響などで地方差が薄れてきているようですが)。
ぼくの理解では京阪神で、
京都 きぃひん
大阪 けぇへん
神戸 こぉへん
です(笑)。
キネマ探偵カレイドミステリー ー輪転不変のフォールアウトー [日本の作家 さ行]
キネマ探偵カレイドミステリー ~輪転不変のフォールアウト~ (メディアワークス文庫)
- 作者: 斜線堂 有紀
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2018/03/23
- メディア: 文庫
<カバー裏あらすじ>
「終幕だ。傑作だったな。」
嗄井戸の部屋からスナッフフィルムを見つけた奈緒崎は過去の事件を解決するべく、フィルムアーキビスト菱崖小鳩に協力を依頼する。
嗄井戸に疑いの目を向ける束(たばね)に相対しながら、嗄井戸の味方でいることを選んだ奈緒崎だが、真実に近づくにつれ、苦境に立たされていくことに。そして迎えた大晦日の夜、二人はとある決断をする──。
数々の名作の裏に隠れた事件の真相を解き明かした時、落下(フォールアウト)するのは誰なのか?
2024年7月に読んだ12作目(13冊目)の本です。
「キネマ探偵カレイドミステリー」 (メディアワークス文庫)(感想ページはこちら)
「キネマ探偵カレイドミステリー ~再演奇縁のアンコール~ 」(メディアワークス文庫)(感想ページはこちら)
に続く、斜線堂有紀の第3作。
第一話「逆行無効のトライアンフ」(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)
第二話「依然必然のアクチュアリー」(『ラブ・アクチュアリー』)
第三話「輪転不変のフォールアクト」(『俺たちに明日はない』)
の三話からなる連作短編集。
前作の感想に
「このエンディングはずるいよ、斜線堂さん。
嗄井戸の過去につながりそうな、とても怖いシーンで終わるだなんて!」
と書いたその続きです。
「逆行無効のトライアンフ」は、学園祭の展示用に映画研究会が作成した、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のデロリアンのレプリカが、少し目を離した隙に、ドアだけ残して消えた事件。
誰もが想定する解決法をすばやく否定する作者の手つきがいいですね。
「依然必然のアクチュアリー」は、奈緒崎がバイト先で発生した殺人事件の容疑者になる、という話。
このダイイング・メッセージ、とても説得力があるな、と思いましたが、いかがでしょうか?
「復讐を完遂して、なおかつ〇〇さんはまだやり直せるんですよ。どうせなら罪を償って第二の人生をを生きた方が得じゃないですか? だって、ここまでやったんですから。苦しいままでいるなんて勿体無いですよ。」(206ページ)
という奈緒崎、なかなか格好いいではないですか。
「輪転不変のフォールアクト」は嗄井戸を捕えている過去の事件が解明され、シリーズのエンディングを飾る、堂々としたエンターテイメントらしいラストになっていて◎。
ちょっと情景が分かりにくかったのですが、とても楽しく読めました。
作者のあとがきで、
デビュー作では『フィクションに閉じ籠った人間を飛び込んできた人間が救う』をテーマに書いたので、今度は『凄惨な現実を美しいフィクションが救う』を書きたいと強く思いました。
と書かれている通り、フィクションによる救済がフィクションならではのかたちで力強く描かれていました。
シリーズはこれで完結のようですが、またいつか、嗄井戸と奈緒崎と束の話を読んでみたいな、とそんな気になったシリーズでした。
<蛇足1>
「映画に被れているだけあってリアクションがオーバーな奴だ」(62ページ)
「かぶれる」ってこう書くんだ、と思って調べてみたら、「気触れる」 と書くようですね。
<蛇足2>
「人間は最後に一矢報いてやりたいと思うものなのかもしれない。丁度、蠍に刺された旅人が、死に際にその蠍を潰そうとするように。」(161ページ)
蠍に刺されると、こう思うのでしょうか?
なんとなくわかるような。
タグ:斜線堂有紀
おやすみ人面瘡 [日本の作家 さ行]
<カバー裏あらすじ>
全身に “顔” が発症する奇病 “人瘤病” が蔓延した日本。流行は落ち着いたが、“人間” と呼ばれる感染者たちが起こす事件は社会問題となっていた。そんな中、かつて人瘤病の感染爆発があった海晴(うみばれ)市で殺人事件が起きた“人間” 殺害事件。ひとりは顔を潰され、もうひとりは全身を殴打されていた。容疑者は第一発見者を含む4人の中学生。そこへ現れた男が事件の真相を見抜くものの、彼も容疑者のひとりに突き飛ばされ死亡してしまい!?
7月になりました。もう下半期ですか......
感想は、2024年5月に読んだ最初の本です。
「おやすみ人面瘡」 (角川文庫)。
「人間の顔は食べづらい」 (角川文庫)(感想ページはこちら)
「東京結合人間」 (角川文庫)(感想ページはこちら)
に続く白井智之の第3作。
「2017本格ミステリ・ベスト10」、第5位。
「このミステリーがすごい! 2017年版」、第8位。
毎回ぶっとんだ設定、物語世界を構築してミステリを届けてくれる白井智之ですが、今回の設定は、人面瘡。
人面瘡だったら、通常のミステリでも出てくるな、と思ったら大違い。
この「おやすみ人面瘡」に出てくる人面瘡は、通常の人面瘡ではありません。
なにしろ人面瘡自体が意識を持つ(ことがある)というのですから。
この人面瘡の設定を存分に生かしたミステリが展開されるのですが、いや、グロいこと夥しい。
“人瘤病” に罹患し、 人面瘡ができた人間を風俗嬢として酷使するとは、よくこんなこと思いつきますよね。
「fat girl」と銘打たれた章では、仙台市にあるこの風俗店の従業員の活動が、「school girl」と銘打たれた章では、海晴市の中学校での騒動が、それぞれ描かれていきます。
読み落とし、勘違いの可能性は重々あるのですが、今回のこの人面瘡の設定の説明が、いままでの作品よりもゆるいように思いました。
あくまで比較論ですが、前2作と比べると特殊設定がそれほど無茶苦茶ではないため、説明が軽くなっているような気がします。
そのため最後の謎解きシーンで、設定と結びついたダイナミクスが、前2作ほど響いてこなかった、「ああ、そうだったのか」「この設定はこういう真相に結びついていたのか!」と膝を打つとはならなかったように感じてしまいました。
それでも十二分に楽しかったですけどね。こちらが欲深いだけです。
<蛇足1>
「平日なのに抗議デモって、こいつらは何でメシ食ってんのかね」
「さあ。ブルジョアなんじゃないですか。」(100ページ)
風俗店員同士の会話ですが、ブルジョアって、普通の会話で出てくるのが意外でした。
<蛇足2>
「ならミステリはどうですか。『駱駝たちの饒舌』って映画がよくできてましたよ。犯人が腹話術師で、ラクダが喋っているようにみせかけていたんです。」(111ページ)
『駱駝たちの饒舌』って明らかに「羊たちの沈黙」を意識していますよね。
ちなみに、この7行前のセリフはあとで見返してとても感心しました。大胆なほのめかしだと気づきました。
<蛇足3>
「おいら、太腿に脳瘤はないよ。ツムギちゃんと同じで、生殖器に脳瘤があるんだ」
思わずメメタロウの股間に目を向ける。でべそがカモフラージュになって気づきにくかったけれど、メメタロウの局部はこんもりと膨れていた(180ページ)
でべそでは、股間はカモフラージュにならないような気がしますが......
戦争の法 [日本の作家 さ行]
<カバー裏あらすじ>
1975年、日本海側のN***県が突如分離独立を宣言し、街は独立を支持するソ連軍の兵で溢れた。父は紡績工場と家族を捨てて出奔し武器と麻薬の密売を始め、母は売春宿の女将となり、主人公の「私」は親友の千秋と共に山に入って少年ゲリラとなる……。無法状態の地方都市を舞台に人々の狂騒を描いた傑作長篇。
2024年1月に読んだ5冊目の本です。
「戦争の法」 (文春文庫)。
「バルタザールの遍歴」 (角川文庫)で、日本ファンタジーノベル大賞を受賞してデビューした佐藤亜紀の長編第二作。
佐藤亜紀の感想を書くのは「雲雀」 (文春文庫)(感想ページはこちら)以来の2作目。
ミステリ一辺倒の読書傾向なのですが、しばらく日本ファンタジーノベル大賞を追いかけようとしていた時期があり、佐藤亜紀に関しては、その中で「バルタザールの遍歴」 を受賞直後に単行本で購入して読み、正直なんだかよくわからない部分もあったけれどとても心地よく感じ、そのあともちょくちょく読むようになっています。
どの作品も濃厚というか、凝縮された小説という感がします。
内容もそうですし、字面としても、試しにどれか佐藤亜紀の本を手に取ってみてもらえばわかるのですが、字が多い! 空白が少ない印象を受けます。
いずれの作品も、人物の出し入れや構成が考え抜かれている気配が漂っていて(評論家ではないので、詳細に分析する能力を持ち合わせておりませんが)、難しく感じても、わからないと思っても、読んでいてとても楽しいんですよね。
もちろん、登場人物たちや物語そのものも面白い。それに加えて、なんというか、作品を貫く強い意志、作者の意志が感じられるんですよね──ここがわりとミステリを読んでいる時の感覚に近いのかもしれません。
この「戦争の法」も同様です。
ストーリーは、日本から独立した新潟県──いや、そうは書いてありませんね、N***県を主な舞台に、友人とともにゲリラに身を投じた少年の成長を、その少年の視点から描くものです。
地方(というのも失礼かもしれませんが)が日本から独立というと、井上ひさしの「吉里吉里人」(上) (下) (新潮文庫)を連想しますが、あちらは喜劇調であるのに対し、こちらはシリアス路線。
後ろにソ連がいる、という設定がいかにもな感じを醸し出していますよね。ソ連軍が駐留する N***県(N***人民共和国)のありようが妙にリアル(佐藤亜紀なんで、リアルが感じられるのは当たり前なんですが)。
それも一般市民(と言い切れない人もいますが)の日常生活を通して濃密に、主人公がゲリラとなるまでがしっかり描かれます。
一篇の小説としてみたとき、ゲリラの部分がメインになろうかとは思うのですが、それはゲリラ以前の部分があってこそ。
独立前、独立後、ゲリラの戦闘前、戦闘中、戦闘後、いずれの場合であっても、人々は生活をしていくし、ゲリラだって、軍だって、あるいはソ連軍だってそれは同じこと。
そのことが、時に激しく時になだらかに対比されるように、周到に構築されていて、静と動の交錯に眩暈するほど。
「最初に戦争があるわけではないし、戦争によって社会的な関係性が棚上げされるわけでもない。まず傍目にははっきりと見えない関係性があって、その延長線上にたまたま戦争があり、関係性で結ばれた個人の行動様式が戦争によって変更されるだけなのである。ここで戦争はなし崩しに国際政治の原理から切り離されていつの間にか地方風俗に回収され、煮詰められた関係性を次の段階へ進めるための材料となる。」(解説437ページ)
と佐藤哲也が説いていますが、「戦争の法」というタイトルでも、ここで描かれるのは「戦争の法」にとどまらず「人間の法」「この世の法」とでも呼ぶべき真実だと感じます。
ああ今確かな小説を読んでいるという手ごたえを感じられる、充実の読書時間でした。
以下、印象に残ったフレーズのうちのいくつかを(挙げだしたら多すぎて終わらない!)、自分の心覚えのために引用しておきます。
「極めて知的で、教育もあり、繊細な感性を備えた男であっただけに、戦争が好きだった。にもかかわらず、ではない。大部分の真面目な農民は、ゲリラに身を投じた後も、戦争そのものにはあまり熱心ではない。こんな非常識なゲームに熱狂するのは良識がありすぎるのだ。良識を足蹴にするにはある種の思弁能力と想像力が要る。思弁し想像したことが実際の行動に移されるには、知性と押さえがたい欲望とが癒着していなければならない。知性と欲望が結びつくには、生来ごく繊細で、かつ、よく組織された感性を必要とするだろう。理性で欲望の尻を叩く悪逆の哲学者の誕生である。」(149ページ)
「余程のことでもあれば別だが、人に腹を立て続けたりするには伍長は余りにエゴイストだった。」(225ページ)
「反戦平和で平和は守れるか。もちろん守れると私は確信している。自分の心の平和位なら。武力による世界平和の維持など、どこか余所の戦争好きがやればいいことだ。」(238ページ)
「頭のいい女というのは不幸なものだ。夥しい数の女たちが戻ってきた亭主たちの首に、人目を憚らず、しがみ付いた。同じくらいの数の女たちが尻を蹴って家から追い出した。それもただ単に帰って来てくれて嬉しかったから、或いは腹が立ったから、というだけだ。これなら気が変わっても言い訳が利く。ところが頭のいい女という奴は、自分の感情をきちんと筋道立てて整理しておくから、後戻りが利かないのだ。女が利口に生きるためには頭など不要である。もっともこれは誰でも同じかもしれない」(369ページ)
「だが残念ながら、麻痺と慣れとの間には微妙で決定的な相違がある。前にも書いた通り、暴力に対する感覚が麻痺したら暴力を効果的に行使することはできなくなる。慣れというのは効果を熟知することだ。麻痺と慣れとがどの程度の割合で入り混じっているかには個人差があるが、とりあえず暴力の効果を熟知した我々にとって、ここでの殴り合いや蹴り合いに簡潔で効果的なコミュニケーション以上の意味はない。要するに純粋で儀礼的な暴力行使なのである。現にここに至るまでの立ち回りでも死人は出ていない。出そうと思えばいつでも簡単に出せるのだが。」(377ページ)
<蛇足1>
「殊更な愛国者でなくとも、今だにN***県出身者と知ると非国民扱いする者は多い」(8ページ)
ここを読んで、大昔(高校生の頃)「”今だに” は間違いで ”未だに” と書かなければならない」と言っていた国語教師を思い出しました。
PCの変換で、”今だに” というのは出ないのですね。
タグ:佐藤亜紀
償いの椅子 [日本の作家 さ行]
<カバー裏あらすじ>
五年前、脊髄に銃弾を受けて能見は足の自由を失い、そして同時に、親代わりと慕っていた秋葉をも失った。車椅子に頼る身になった能見は、復讐のため、かつての仲間達の前に姿を現した。刑事、公安、協力者たち。複雑に絡み合う組織の中で、能見たちを陥れたのは誰なのか? そしてその能見の五年間を調べる桜田もまた、公安不適格者として、いつしか陰の組織に組み込まれていた。彼らの壮絶な戦いの結末は…?
2023年10月に読んだ4冊目の本。
沢木冬吾の「償いの椅子」 (角川文庫)。
沢木冬吾といえば、第三回新潮ミステリー倶楽部賞高見浩特別賞を、「愛こそすべて、と愚か者は言った」 (角川文庫)という、タイトルを見ただけで読む気をなくしそうな作品で受賞しデビューした作家です──といいつつ、読んでいます。
「愛こそすべて、と愚か者は言った」は、至極まっとうなハードボイルド、活劇シーン付きの普通のハードボイルドでした。
この「償いの椅子」も同じ路線。銃撃戦付き。
主人公格の能見が車椅子を使うことも含めて、一つの定型どおりの作品になっており、そこが長所でもあり短所でもあり、という形。
能見は5年間の潜伏生活(?) のあと、車椅子で登場するのですが、本当に車椅子を必要としているのか(偽装なのか?)、慕っていた秋葉は死んでいたとされているが本当は生きているのか?、突然現れた能見の狙いは何なのか?、種々明かされないまま物語は進んでいくのが大きなポイントとなっており、その点で引用したカバー裏のあらすじは、この趣向を無視したかたちでよくないですね。
視点が能見でも、肝心の部分は明かされないまま進んでいきます。
能見のパートは、もう一つ、能見の妹家族の様子が語られます。ろくでもない義弟。義弟に虐待される姪と甥。
同時並行的に財団法人薬物乱用防止啓蒙センターに派遣されている刑事たちの物語が語られます。
秋葉、能見は、このセンターにいた有働警視と協力もしていた。
捜査対象組織が仕掛け、有働、秋葉は命を落とし、能見も車椅子生活を余儀なくされる状態になった、と。
こちらのセンターでも、不正を働くものと、5年間の能見の動きを探れと指示されるものと、さまざまな登場人物の思惑が入り乱れるかたちとなっています。
いろいろな要素を詰め込んだ欲張りな構成になっていて、それらがクライマックスの銃撃戦へ向け収斂していく、という風になっていると素晴らしかったのですが、残念ながらそうはなっておらず、絞り切れなかった要素があちこちに。
あまりにも多くのことをぼかしたまま話を進めようとしたことで、なにより肝心かなめの能見の人物像をいまひとつ把握しきれなかったのが残念。
物語構成上の必要からかと思われるのだけれど、視点が変わってしまうことが主因で、隠すこと明かしておくことをもっと整理しておいてほしかったところ。作風的にサプライズを狙ったわけではなさそうなので、なおさら。
登場人物たちを疑心暗鬼に陥らせるために、読者を五里霧中にしておく必要はないのですから。
と大きな指摘をしたものの、話自体は面白く読めました(なんだかんだでこういう話、嫌いじゃないんです)。
日本で銃撃戦というのもなかなか難しいのですが、きちんとイメージできました。それだけでも立派だと思います。
こういう作風は日本では最近少なくなっているように思いますので、続けてもらいたいです。
アマルフィ [日本の作家 さ行]
<カバー裏あらすじ>
日本とイタリアによる共同開発事業の調印式に出席するため、ローマ入りする外務大臣を警護せよ。特命を受けた外交官・黒田康作が在イタリア日本大使館に着任早々、大使館に火炎瓶が投げ込まれた。そんな折、母親と観光に訪れた日本人少女が誘拐され、黒田は母親とともにアマルフィへ向かう。周到に計画を遂行する犯人の真の狙いとは?
読了本落穂ひろい。
2015年の12月に読んでいたようです。真保裕一の「アマルフィ」 (講談社文庫)。
織田裕二主演映画の原作、と思っていましたが、経緯が郷原宏の解説に書かれていまして、
「初めに映画のために作られたストーリーがあり、映画の公開に合わせて改めて小説として書き直された、というちょっと珍しい経歴を持った作品です。」
とのことです。
この解説に「異色の外交官を主人公にしたワンマンアーミー(一人の軍隊)型のハードボイルド」と一言で簡潔に評されている通りの作品です。
テロリスト対策室のスペシャリストで外務事務次官の特命で各国大使館に送り込まれる特別領事で、格闘技とライフル射撃の名手という設定は出来過ぎ感ありますが、よく考えたな、と思いました。
実際にこういう役職のお役人さんがいらっしゃるかどうかわかりませんが、現在の世界情勢に鑑み、いてもおかしくない、むしろいてほしい気がしますし、こういうミステリの主人公にうってつけではありませんか。
事件もそんな彼にふさわしく(?)、単なる営利誘拐ではなく(単なる誘拐という表現は問題のある表現だと思いますが、意を汲んでいただければ幸いです)、上に引用したあらすじにもある通り、真の狙いがあります。
その内容についてはミステリの感想のエチケットとして控えますが、複雑な背景を持つ事象を持ってきています。
このための手段としてこの誘拐が適切なものだったのかどうか、疑問に思うところがないではないですし、人物配置が犯行に便利なようになされている点も気になりましたが、主人公の設定に釣り合うものとして捉えました。
しっかり続編がでそうなエンディングになっていますし(実際に出てシリーズ化されています)、こういう作風は好きなのでまた読んでいきたいですね。真保裕一も読み続けていることですし。
ところで、余談ですが、タイトルのアマルフィ、あんまり出てこないんですよね、物語の舞台として。
映画は観ていませんが、しっかりアマルフィが映し出されていたのでしょうか。
世界的な観光名所ですが、小さな町なのでそこを物語の中心にはしづらかったのでしょうが、映画のため人を惹きつけるような舞台が必要だったということでしょうか。
ローマでも十分な気がしますけれど......
<蛇足>
「このイタリアでは、時として誘拐の犠牲者が、イタリア半島の爪先に当たるカラブリア州の山中で発見されることが多かった。」(102ページ)
「時として」と「多かった」というのが並立できるとは思いませんでした。
真保裕一で文章にあれっと思うことはほぼなかったのですが......
(この102ページの隣の103ページに「国情を鑑みたうえで」とあり、続けてあれっと思いました)
タグ:真保裕一
スイッチ 悪意の実験 [日本の作家 さ行]
<カバー裏あらすじ>
私立大学狼谷(ろうこく)大学に通う箱川小雪は友人たちとアルバイトに参加した。1ヵ月、何もしなくても百万円。ただし──《押せば幸せな華族が破滅するスイッチ》を持って暮らすこと。誰も押さないはずだった。だが、小雪は思い知らされる。想像を超えた純粋な悪の存在を。第63回メフィスト賞受賞の本格ミステリー長編!
2023年5月に読んだ4冊目の本です。
潮谷験のメフィスト賞受賞作「スイッチ 悪意の実験」 (講談社文庫)
上で引用したあらすじ、微妙に違和感があります。
むしろネット通販のページ上に書かれている下のものの方がしっくり。
夏休み、お金がなくて暇を持て余している大学生達に風変わりなアルバイトが持ちかけられた。スポンサーは売れっ子心理コンサルタント。彼は「純粋な悪」を研究課題にしており、アルバイトは実験の協力だという。集まった大学生達のスマホには、自分達とはなんの関わりもなく幸せに暮らしている家族を破滅させるスイッチのアプリがインストールされる。スイッチ押しても押さなくても1ヵ月後に100万円が手に入り、押すメリットはない。「誰も押すわけがない」皆がそう思っていた。しかし……。
第63回メフィスト賞を受賞した思考実験ミステリが文庫化!
主人公であり視点人物である箱川小雪の考え方や行動についていけず、個人的には物語に乗りそびれた感が強いのですが、それでも最後まで興味深く読みました。
予想外の展開に持ち込んで見せる技を堪能したと言えます。
あらすじに書いてある設定ですが「自分達とはなんの関わりもなく幸せに暮らしている家族を破滅させるスイッチ」(具体的にはそのスイッチが押されると、金銭的な援助が打ち切られてしまう)を押すかどうかという実験に主人公たちが参加するという物語になっているのですが、この出だしから、どうミステリに持ち込むのだろう、と思っていました。
押すにせよ、押さないにせよ、ミステリにはなりにくいな、と。
ところが物語半ばのあるページに来て、なるほど、その手があったか、と。
謎そのものは平凡というかありふれた設定ではありましたが(ここで提示される謎の絵解きに期待してはいけません)、ここですっと謎解き物語に転化するのは見事だなぁ、と思いました。
作者はさらに手が込んでいて、その後さらに物語は形を変えます。
謎解きが具現化するのですが、こういう展開になろうとは予想していませんでした。
ただ、それよりも物語の比重は、宗教観、あるいは主人公たちの人生観に重きが置かれるようになってしまいます。
「純粋な悪」研究のための実験だった、ということですから、もとより宗教観のようなものが打ち出されてもおかしくはなく、力の入れ方からして作者もここが書きたかったのだろうなと思われるのですが(各登場人物の設定も、このテーマに沿う形となっています)、ミステリ好きのこちらからすると、ここはあまりしつこくせずに、ミステリとしての側面をがんばってほしかったところ。
考え方や行動に違和感を覚えているだけに、余計そう感じてしまいました。
とはいえ、物語を転換させていくのは面白いなと感じましたので、またまた注目の作家ができてしまいました。
ちなみに「純粋な悪」というのは
「ようするに僕の考える悪とは、他者を傷付ける行為、という単純なもの。その衝動を解放させる状況によって評価が異なってくる。戦争のような、ルールで許されている他害行為は純度が低い。あいつが憎いとかあいつが持っているアレが欲しいという理由で振り降ろされる暴力は、それに比べるとマシだけどまだまだ濁っている。そして悪行機械のように、理由も躊躇もなく実行される他害行為こそが」「僕の求める、純粋な悪だったのさ。」(156ページ)
と実験を主宰する心理コンサルタントに説明されます。
<蛇足1>
「音楽とは、基本的に情景を呼び起こすものだと私は思う。歌詞の存在を問わず、激しい楽曲は嵐を、柔らかい音楽は優しい花園のような形を聞く者の頭に浮かび上がらせる。」(100ページ)
主人公のコメントです。
音楽というものに対するイメージは人それぞれかと思いますが、この受け止め方は面白いですね。
歌詞の効用についても聞いてみたくなります。
<蛇足2>
「僕に限らず社会学とか心理学系の研究者って、論証を疎かにすることも多いしねえ」(156ページ)
心理コンサルタントのコメントです。
個人的に大学のジャンル的には文系出身となりますが、ここで述べられていることは、社会学、心理学に限らずいわゆる文系一般に当てはまるように思いますね(こんなことを言うと叱られるかもしれませんが)。そもそもそれ以前として、使う用語の定義が定まっていないことも多いように思います。
セオイ [日本の作家 さ行]
<カバー裏あらすじ>
「セオイ」──それは、悩める人々が最後に頼ると噂される謎の伝承技である。技の使い手の鏡山零二と助手の美優は、西新宿の裏路地に居を構え、人知れず老若男女を救っていた。だがある時、有名作家の事故死との関連でベテラン刑事に目をつけられ、執拗につきまとわれる。必ずしも無関係とは言いがたいのだが……。鏡山はやがて、美女連続殺人事件に絡んだ恐ろしい陰謀の渦中にのみ込まれていく──衝撃のデビュー長篇!
2023年3月に読んだ5冊目の本です。
丈武琉の「セオイ」 (ハヤカワ文庫JA)
第3回クリスティー賞の候補作が出版されたもの。
ちなみにこのときの正賞は三沢陽一「致死量未満の殺人」 (ハヤカワ文庫JA)(感想ページはこちら)。
冒頭、鏡山零二が新宿駅で、周囲から作家の堀井次郎だと指摘されつつ、飛び込み自殺をします。
ところが続く第一章では、鏡山零二は「セオイ」の事務所で「背負い人」として登場。
あれ? 冒頭のシーンと時点が違うのかな? と思っていると、「セオイ」の事務所のテレビで、新宿駅で絵作家の堀井次郎が電車に轢かれて死亡したというニュースが流れる。
読者はよくわからない状態にさらされますが、次第に「セオイ」の説明とともに事情が明かされていきます。
この人の人生を “背負う” という設定が魅力的で、引き込まれてとても楽しく読みました。快作だと思います。
登場人物たちも興味深かったです。
背負われる人たちの物語も魅力的に思えました。
震災後の写真を撮る写真家のセリフ
「あの子は両親を亡くしておばあちゃんと二人で暮らしている。あんたが抱き上げた女の子は父親と姉さんが津波に飲まれて遺体も出ていない。さっき集まった子供達の誰もが、何かしらを失っているんだ。子供ってそういうことにじっと耐える。大人みたいに器用に言葉にできないし泣けない。心が砕け散りそうでも愚痴ひとつ言わない。」(162ページ)
が印象的でした。ありふれた意見かもしれませんが、折々思い返すべき言葉のような気がします。
これ以外の物語も様々です。
いろいろなエピソードを盛り込めるので、これをメインに据えた連作も作れそう。
背負い人である鏡山零二と赤星美優の関係性もおもしろかったですし、他人の人生を背負うという物語が、次第に背負い人鏡山零二自身物語になっていく展開もよかった。
ただ、物語の終盤で、この設定がよくわからなくなった、というか、「セオイ」で何ができて何ができないかが物語に都合よく後出しジャンケンされたような気になりました。
「セオイ」同士の対決的物語へと至るので、通常モードの「セオイ」と、プロ対プロとしての究極の「セオイ」とは違うのだ、ということかもしれませんが、このあたりを事前に説明しておいてもらえればいっそう感心できたのにと少し残念。
それでもとても面白い作品でした。
このときは正統派本格ミステリ「致死量未満の殺人」が受賞作でしたが、この「セオイ」 (ハヤカワ文庫JA)のような作品が受賞してもおもしろかったかも、と思えました。
タグ:アガサ・クリスティー賞 丈武琉
キネマ探偵カレイドミステリー ~再演奇縁のアンコール~ [日本の作家 さ行]
キネマ探偵カレイドミステリー ~再演奇縁のアンコール~ (メディアワークス文庫)
- 作者: 斜線堂 有紀
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2017/08/25
- メディア: 文庫
<カバー裏あらすじ>
日常は映画より奇なり
火事で家が燃え、嗄井戸(かれいど)が住む銀塩荘の一階に引っ越した奈緒崎(なおさき)は、嗄井戸の部屋に入り浸る日々を過ごしていた。
夏休みが終わり、大学に赴いた奈緒崎──。
実力派女優の家に残されたピンク色の足跡、中古ビデオ屋の査定リストに潜む謎……圧倒的な映画知識で不可解な事件を解決してみせる引きこもりの秀才・嗄井戸。その謎解きの中には彼自身の過去が隠されていて──?!
2023年2月に読んだ8冊目の本です。
「キネマ探偵カレイドミステリー」 (メディアワークス文庫)(感想ページはこちら)に続く、斜線堂有紀の第2作。
「キネマ探偵カレイドミステリー ~再演奇縁のアンコール~ 」(メディアワークス文庫)。
第一話「再演奇縁のオーバーラップ」(『スタンド・バイ・ミー』)
第二話「自縄自縛のパステルステップ」(『アーティスト』)
第三話「正誤判定のトレジャーハント」(『バグダッド・カフェ』)
の三話からなる連作短編集、『バグダッド・カフェ』観てないなぁ。
なんですけど、このエンディングはずるいよ、斜線堂さん。
嗄井戸の過去につながりそうな、とても怖いシーンで終わるだなんて!
巻頭に、探偵役を務める嗄井戸高久と語り手である俺・奈緒崎との牧歌的とも言えるやりとりが掲げられているので、安心していたら、なんという終わり方。
続きが気になって仕方ない。
さておき。各話みていくと、
「再演奇縁のオーバーラップ」は、奈緒崎の同級生が『スタンド・バイ・ミー』を盗んだ疑いをかけられるという物語ですが、盗みそのものから話の焦点がずれていくところがおもしろかったですね。しかし、この同級生は運のいいやつだ。
「自縄自縛のパステルステップ」は、白い敷石につけられたピンク色のペンキの足跡の謎なのですが、正直無理があると思います。実物を見たわけではないので、そういうものだと言われたらそれまでなのかもしれませんが、登場人物は絶対気づくと思いますし、心理的にもありえないと思うのですが(登場人物が状況に慣れていなかったというのがギリギリ可能な解釈でしょうか)。
同種のアイデアを使った作品は、ミステリではいくつか先例がありますが、いずれも鮮やかというよりはミスが目立つので、使いにくいアイデアなのかもしれませんね。
とはいえ、舞台女優である荒園杏子が印象的だったのと、束(たばね)と奈緒崎の話というのがなかなか味わい深かったので、楽しみましたが。
「正誤判定のトレジャーハント」は、遺産が一千万単位で少なかったので、死後に処分されたDVD、VHSコレクションの中にお宝が隠されていたのではないか、という謎で、目のつけ処が面白いなと思いました。でも、簡単にできるのかな、これ?
そして最後にねぇ.....こんな爆弾シーンで締めくくるなんて、斜線堂さん、いじわるです。
この「キネマ探偵カレイドミステリー ~再演奇縁のアンコール~ 」(メディアワークス文庫)は、嗄井戸の影が薄いわけでは決してありませんが、語り手である奈緒崎のキャラクターがどんどん浮き彫りになっていく感じがしてとても楽しかったです。
さて、「キネマ探偵カレイドミステリー ~輪転不変のフォールアウト~」 (メディアワークス文庫)をなるべく早く読まなきゃ。
<蛇足1>
「フィルム・アーキビストです。いわば、映画の保存師ですね。映画を後世に残す為、フィルムの劣化を防ぎ、全ての映画を守る仕事です。」(21ページ)
そういう職業があるのですね。
非常に重要な仕事だと思います。
<蛇足2>
「トーキーってなんだ?」
「そのまま、無声映画に対して音声のついた映画のことだよ。麗しくも喋るもの。Moving Picture が movie になるんだから Talking picture が Talkie になるのも自明だろう?」(153ページ)
なるほど。トーキーという語は知っていましたが、語源的にムービーと相似形ということは意識していませんでした。
<蛇足3>
「終幕だ。……愁作(ゆうさく)だったな」(184ページ)
嗄井戸の決めゼリフで、一話目が奇作で、三話目が「感涙必至の秀作」だったのですが、この第二話の「愁作」がわかりませんでした。まあ、「愁い」という字で雰囲気はわかるんですけど、愁の字を「ゆう」と読んだら伝わらない気がします。
小説ならではの表現ということでしょうか?
タグ:斜線堂有紀