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白光 [日本の作家 ら行]


白光 (光文社文庫)

白光 (光文社文庫)

  • 作者: 連城 三紀彦
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 文庫


<裏表紙あらすじ>
ごく普通のありきたりな家庭。夫がいて娘がいて、いたって平凡な日常――のはずだった。しかし、ある暑い夏の日、まだ幼い姪が自宅で何者かに殺害され庭に埋められてしまう。この殺人事件をきっかけに、次々に明らかになっていく家族の崩壊、衝撃の事実。殺害動機は家族全員に存在していた。真犯人はいったい誰なのか? 連城ミステリーの最高傑作がここに。

読後の感想を正直に述べると、「あぁ、いかにも連城三紀彦の作品だなぁ」でした。
その昔(というくらい時間が経っています)、「私という名の変奏曲」 (ハルキ文庫)「夜よ鼠たちのために」 (新潮文庫)「運命の八分休符」 (文春文庫)「少女」 (光文社文庫) あるいは、「黄昏のベルリン」 (文春文庫)あたりを夢中に読んでいたころの連城三紀彦と、最近の作品では雰囲気が違うと思っています。
たとえば最近の作品では、「人間動物園」 (双葉文庫)なんかは世評も高くミステリとしても優れている、という評価が定着していますが(たとえば、「このミステリーがすごい! 2003年版」では第7位です)、違和感がぬぐえないというか、すっきりしない感が強く、あまり素直に感心できません。
この作品も、どんでん返しに次ぐどんでん返し、という趣向そのものは珍重すべき、とは思うものの、どうも引っ掛かりを覚えてしまいます。
子供が殺される、という点そのものについてもあまり好ましくない、と思うのですが、それをおいておくとしても、人間の暗い感情をこれでもか、これでもか、というくらい執拗に暴き立てる筆致に、やりきれなさを感じてしまいます。
連城三紀彦はもともと非常に筆力のある作家なので、その暗い感情が強く読者に迫ってくるところも、こちらの気分的に逆効果なのかなぁ、と思います。へたくそな作家だと、ここまで強烈な印象を受けないのでやりきれなさは軽減されると思うのですが、そうすると今度は登場人物の心理が迫ってこないという、問題点を抱えることになり、難しいですね。僕の抱いている感想は、難癖に近いものだ、という気がするものの、もっとあっさりしたほうがすっきりしてよいのになぁ、と感じてしまいます。
ミステリ的にも、いったい誰が犯人だろう、という読み手の意欲もどこへやら、次々とひっくり返っていくという趣向は、Aだった、いやAではなくBだった。Bと思っていたらCだった。Cに見えたがDだった。DというのはうわべだけでEだった、いやいややっぱりEではなかった....と際限なく続いていくうちに、なんだかどうてもいいや、というか、誰が犯人でも構わないや、という境地に至ってしまって、かえってマイナスではなかろうかと思います。
うまく説明できないのですが、逆転に次ぐ逆転が、物的証拠に支えられた逆転ではなく、それぞれの登場人物の心のひだに入り込み、そのつもりではなかった、こういう意図ではなかった、逆にああいう意図であった、という心理的な逆転、すなわち客観性の少ない(客観的データで裏付けしにくい)意識の逆転であることも、こういう見方の要因になっていると思います。人間の心が一番のミステリーだ、なんてよく言いますが、心の謎だけではミステリとして物足りないと思ってしまいます。そこにミステリらしいロジックがなければ、極端に言えばまやかしでもいいからなんらかのロジックがなければならないのではないでしょうか。
この作品で、平凡そうな家族の日常を背景にしながら、一部非日常(読まれた方には何のことがおわかりいただけると思うのですが)の要素を持ち込んでいることについてもちょっと不満が残ります。そういう部分がなくても、連城三紀彦なら同じような状況を作り出せたのではないかと。
一方で、逆の見方をすると、連城三紀彦は、ミステリらしいロジック、論理のアクロバットがなくても、十分に逆転に次ぐ逆転を演出できることを実作でもって証明し続けているわけで、すごいなぁ、と感心します。似たような作風を海外含めて思いつかないこともすごさを際立たせていると思います。
というわけで、いい意味でもマイナスの意味でも、連城三紀彦のミステリ、としかいいようのない、堂々たる独特の作品です。


タグ:連城三紀彦
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