歌の終わりは海 [日本の作家 森博嗣]
歌の終わりは海 Song End Sea (講談社ノベルス モF- 60)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2021/10/07
- メディア: 新書
<カバー裏あらすじ>
妻の依頼は、浮気調査だった。夫は、数多くのヒットソングを生み出した作詞家。華やかな業界だが、彼自身は人づき合いをしない。そのため彼に関する情報は少なかった。豪邸に妻と息子と暮らし、敷地内には実姉の家もあった。苦労の多かった子供時代、生活を支えた姉を大切にしていて、周辺では「姉が恋人」と噂されていた。探偵による監視が始まった。浮気の兆候はない。だが妻は、調査の続行を希望。そして監視下に置かれた屋敷で、死体が発見される。
2024年9月に読んだ7冊目の本です。
森博嗣の「歌の終わりは海 Song End Sea」 (講談社ノベルス)。
「馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow」 (講談社文庫)(感想ページはこちら)に続くXXシリーズ第2作。
すでに文庫化されています。書影はこちら。
歌の終わりは海 Song End Sea (講談社文庫 も 28-86)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2024/07/12
- メディア: 文庫
このノベルス版が出版された当時は、未だシリーズとして確定していなかったのですね。
カバーの見返しに講談社ノベルスの森博嗣作品リストがあるのですが、前作「馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow」 (講談社文庫)はシリーズ外作品になっています。
おなじみ (?) の小川令子と加部谷恵美が受ける今回の調査は、浮気調査なのですが、引きこもりのような生活を送る作詞家はちっとも浮気をしているようには見えない、という......。
なので、事件というか事態を捜査、調査しているのを描いているというよりは、探偵たちがどうやって時間を潰しているかが描かれているような(笑)。
描かれている死も、どうやって自殺したのだろう、あるいは他殺か? と通常のミステリであれば進んでいきそうなものになっているのですが、そのあたりはあまり突っ込まれることなく、ある意味不思議な展開へ。
前作「馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow」の英字部分が ”風来坊” だったように、今回の
「歌の終わりは海 Song End Sea」の英字部分は、”尊厳死” ということで、ある程度物語の輪郭は想像できてしまうのですが、森博嗣のこと、想像とずれた感じになっていくのが興味深く、最後までひきつけられてしまいました。
余談ですが、西園寺萌絵がゲスト出演(?) し、
「真実というものは、たぶんどこにもないの。そういうものがあると信じて、みんながそれぞれに異なる虚像を追っているだけ」(290ページ)
と、なんともなセリフを吐いています。
こういうセリフを口にするような経験を、どこかでしたのでしょうか?
きっかけとなった事件を描いた作品を読んでみたいような。
「さておき、このシリーズはどこへ向かうのでしょうか?
どういうベクトルを持つシリーズなのか、楽しみではあるのですが、ちょっとこちらの好みからは外れていきそうな予感......」
と前作の感想で書いた通りになってきています。
シリーズ次作「情景の殺人者 Scene Killer」 (講談社ノベルス)はどんな形になっているでしょう??
<蛇足>
「わからんでもないけれど、でも、言葉で説明すれば良いことであって、わざわざそんな不思議な演出の死に方を実践しなかん理由がわからん」(200ページ)
「俺は、歯医者の予約をキャンセルせなかん」(222ページ)
どちらも加部谷の友人でジャーナリストの雨宮純のセリフです。
”しなかん”、”せなかん” というところ、通常だと ”しなあかん”、”せなあかん” となるのだと思われますが、早口の人だと確かに ”しなかん”、”せなかん” と聞こえますね。
馬鹿と嘘の弓 [日本の作家 森博嗣]
<カバー裏あらすじ>
探偵は匿名の依頼を受け、ホームレス青年の調査を開始した。対象は穏やかで理知的。危険のない人物と判断し、嵐の夜、街を彷徨う彼に声をかけた。その生い立ちや暮らしぶりを知るにつれ、何のために彼の調査を続けるのか、探偵は疑問に感じ始める。
青年と面識のあった老ホームレスが、路上で倒れ、死亡した。彼は、1年半まえまで大学で教鞭を執っていた元教授で、遺品からは青年の写真が見つかった。それは依頼人から送られたのと同じものだった。
2023年4月に読んだ11作目(12冊目)の本です。
森博嗣の「馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow」 (講談社ノベルス)。
しばらく積読にしている自覚はあったのですが、奥付を確認すると2020年10月。もう4年ほど前になるのですね。
すでに文庫化されています。書影はこちら。
あらすじには「探偵は」と書かれていて名前が出てきていませんが、おなじみ (?) の小川令子と加部谷恵美です。
Xシリーズ以来の登場ですね。
Xシリーズは、6作のうち後半の3作の感想を書いています。
Xシリーズが割と普通のミステリに近かったので──という言い方は変ですが、普通に(?)事件が起こって、探偵が出てきて、トリックや仕掛けを暴き謎を解く、というミステリだったので、同じ探偵たちが登場するこの新しいXXシリーズも同様かな、と思って読んだら......まったく違いました(笑)。
ホームレス青年の調査、だったものが、そのベースは外さないものの、どんどん捩れていく。
調査を始めれば、その対象に興味がわく、というのは通常のことかと思います。
それでどんどん調べていって、さらに興味がわいて......この流れがとてもスムーズに、小川令子と加部谷恵美の思索やディスカッション(大げさな用語ですが、森ミステリィのこと、そういいたくなる感じがします)をはさんで、描かれていく。
ところが最後に連れていってくれる場所は、えっ? そっち? と驚きました。
タイトルの「馬鹿と嘘の弓」には、英語で Fool Lie Bow とつけられています。
「馬鹿と嘘の弓」をそのまま訳したものですが、音読すると、フーライボウ=風来坊というわけですね。
馬鹿も嘘も弓も、この作品の重要なキーワードです。
馬鹿というのは、ここが象徴的ですね。
「酒は飲みません。正気を失うような危険なものが、何故堂々と売られているのか理解できません。責任能力を失うために、皆さん飲まれているのでしょうか?」(306ページ)
「その……、君の言う馬鹿というのは、どういう意味だね? もう少し話してくれないか」
「自分たちが何を目的に生きているのかを考えていない、いわば家畜のような人間だという意味です。誰かに生かされている状況です。社会に飼われている。自力では生きることができません。ときどき無礼講で発散できる場所を与えられ、酒も安く買えるように設定されていますから、ああするように仕向けられているのです。それに気づかず、自分たちが好き勝手にしている、と思い込めるのがバカだということです。」(307ページ)
風来坊というのは調査対象の青年のこと、ですね。うまい語呂合わせだと思います。
この作品のクライマックスに据えられている出来事(とぼかして書いておきます)は、世の中に似たような実例がいくつかあり、よくその原因を探る作品もあれこれ書かれているようですが、この「馬鹿と嘘の弓」に似た角度のものはあったのでしょうか?
そんなに特異な考え方ではないと思うのですが、このような出来事と結びつけたものがぱっと思いつきませんでした。
さておき、このシリーズはどこへ向かうのでしょうか?
どういうベクトルを持つシリーズなのか、楽しみではあるのですが、ちょっとこちらの好みからは外れていきそうな予感......
<蛇足1>
「君って、案外抜け目がないな」
「憎めないでしょう? だいたい、みんなから言われます」
「違うって、抜け目がないって言ったの」
「抜け目がないっていうのは、抜けているところがないのだから、賢いっていう意味じゃありません?」(86ページ)
森博嗣の小説で、興味を引く会話を挙げていけばきりがないのですが.....
ここは笑ってしまいました。
<蛇足2>
「私も考えませんね、そういうことは。自分には関係ない、とまでは思いませんけれど、でも、自分が考えることではない、誰か、専門の人が考えてくれて、法律や制度を作ってくれるんだろうって、頼り切っているわけですよ、勝手に」
「それはね、人間というのは、そうやって個人個人でノルマを分担するんだ、と納得しているからでしょう? それが社会の一員になるということじゃない。社会を信頼するのと同じことのような気がする」
「ですよね」加部谷が頷く。「仕事だって、そうじゃないですか。自分にできることを、各自がして、少しずつ社会全体のノルマを分担している。うん、だから、やっぱり、働かないというのは、いけませんね」(196ページ)
こういう風に考えていったことはありませんでしたが、こういう整理はありですね。
<蛇足3>
「大学教授の方が、まともじゃない人が多い気がする」小川が言った。「ちょっと変わっているというか、癖の強い人ばかりじゃない?」
「癖を隠さなくても生きていける世界なんですよ、きっと」(197ページ)
これを書いている森博嗣が大学教授だったという......(笑)
リアルの私はどこにいる? [日本の作家 森博嗣]
リアルの私はどこにいる? Where Am I on the Real Side? (講談社タイガ)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2022/04/15
- メディア: 文庫
<カバー裏あらすじ>
ヴァーチャル国家・センタアメリカが独立した。南米の国や北米の一部も加え一国とする構想で、リアル世界とは全く別の新国家になるという。リアルにおける格差の解消を期待し、移住希望者が殺到。国家間の勢力図も大きく塗り替えられることが予想された。
そんなニュースが報じられるなか、リアル世界で肉体が行方不明になりヴァーチャルから戻れない女性が、グアトに捜索を依頼する。
2023年4月に読んだ1冊目の本です。
森博嗣のWWシリーズの、
「それでもデミアンは一人なのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「神はいつ問われるのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「キャサリンはどのように子供を産んだのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「幽霊を創出したのは誰か?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「君たちは絶滅危惧種なのか?(講談社タイガ)(感想ページはこちら)
に続く第6作です。
ずっと、リアルだバーチャルだという風に物語が展開してきたので、「リアルの私はどこにいる?」 (講談社タイガ)というタイトル自体が不穏で恐ろしい気配。
同時にヴァーチャル国家というものがうごめき始めます。
急展開、ではないかもしれませんが、なかなかに物語が大きく転回していっている気配。
リアルの肉体が行方不明で、ヴァーチャルからリアルに戻れない、というのはぱっと考えても恐ろしいのですが、それはリアルを主と考えているから、なのでしょう。
「そもそも、リアルからヴァーチャルへ個人をシフトさせる試みが、最近話題になっているところだ。それはまだ『先進的』な行為として一般には認識されている。」(32ページ)
というレベル感ではあるものの、リアルからヴァーチャルへのシフトはあちこちで進んでいるような雰囲気ですし、
「もし、ウォーカロンが代替ボディとして使われたとすれば、これは世界的な事件といえるかもしれない。」(60ページ)
「以前から、そうだね、五年ほどまえから考えていた。人がヴァーチャルへ生活の主体をシフトするようになれば、逆に、リアルでは別のボディを受け皿にしたニューライフが登場するんじゃないかって。」(62ページ)
なんて考察をグアドがするくらいには物事は進んでしまっているようです。
「ヴァーチャルでのみ存在する人格というものを、一個人と認めて良いのか、という問題に行き着くのかもしれない。リアルでは、個人は躰の存在で区別ができる。その境界は皮膚の外側であり、思考は頭蓋の中で実行されている。内と外が明確だ。したがって、個人を明確に一人と数えることができる。
ヴァーチャルへシフトした個人は、このように区別できる存在だろうか?」(81ページ)
もはやここまでくると、個人を超えて、人とは何か、ということになりますよね。
リアルからヴァーチャルへシフトした結果であれば、もともとはリアルの人間だった、という認識が可能ですが、そもそもヴァーチャルから生み出されたヴァーチャル個人であれば、そもそも人間として認めるのかどうか。
「そもそも人間のインスピレーションというものは、人工知能が最も欲しがる能力であり、各方面から研究が進められている。現代では、その半分ほどは起動のメカニズムが解明され、人工的な再現も可能となりつつある。いずれそのうち、人工知能も人間と同様に連想し、発想し、予感し、突飛なことを思いつくようになるはずだ」(142ページ)
インスピレーションまで人工知能が駆使するようになれば、ますますリアルの人間との差はなくなっていきそう。
これらすなわち、人工知能も人間と同等と捉えるのか、ということの壁がどんどんなくなっていく、ということですね。
ヴァーチャル国家というものも、そもそも不穏に感じてしまいますが、ヴァーチャルでも人として認識するのであれば、当然ながら国家もそれを束ね、表象する存在として存在しなければならないのでしょうね。
「戦い? リアルで戦争になる?」
「可能性があります」(146ページ)
なんて物騒な展開になります。
ヴォッシュ博士が
「暴力というものは、リアルに未練がある精神の発想だ。リアルから逃れるのは、暴力を嫌い、争いごとから離れたいことが主な動機になっているはずではないか」(156ページ)
と考えたりもしますが、そもそも存在を脅かされるような状況であれば、ヴァーチャルであれリアルであれ、暴力に訴えざるを得ない局面は想定されるということでしょう。
枠組みとして大きく転回しているように思えますが、もちろんこれらのステップは、真賀田博士の想定内であるはず。
「博士が考案したとされている共通思考なるシステム。実際にどこで稼働し、何を目的にしているのかは、今のところ謎に包まれている。」(63ページ)
「ただ……、おそらく今は、自力で成長している段階なんだろう。鳴りを潜めている。表に出てこないというだけ」(63ページ)
「でも、グアトは、その共通思考が人類に不利益をもたらすものだとは考えていませんよね?」
「そう、私は、マガタ・シキという才能を信じている。これには、理由はない。完全に宗教だね」(63ページ)
宗教という語が出てきましたが、Wシリーズ、WWシリーズは、畢竟、マガタ・シキを信じる物語なのだと思っているので、違和感はありません。
「人間は、今や死を迎えない。それに比べると、ロボットは劣化し、いずれは旧型となって廃棄される。これは、人間以上に生物らしい。」(263ページ)
人間が死ななくなると、確かにこう考えることもできるでしょう。
ロボット、人間、ウォーカロン、そしてヴァーチャルの人間と敷衍していって、
「共通思考でマガタ・シキが見据えた未来は、きっとそれらがすべて同じ生命となったさきのことにちがいない。」(263ページ)
と結論づけるグアドの論考は、当然の帰結なのかもしれません。
いつものように英語タイトルと章題も記録しておきます。
Where Am I on the Real Side?
第1章 私はどこにいるのか? Where is my identity?
第2章 私の存在とは何か? Whaat is my existence?
第3章 存在の根源とは? The origin of existene?
第4章 なにも存在しなければ? What if nothing exists?
今回引用されているのは、ダン・ブラウンの「ロスト・シンボル」 (角川文庫)です。
<蛇足1>
「監視されている方が安全です。ガードしてもらっていると考えれば、晴れやかな気持ちになれます」(112ページ)
ロジのセリフです。
なんだか楽しくなってきます。
<蛇足2>
「一フィートを〇・五ミリにする比率は、さきほどの数字、 六十五万八千五百三の三乗根の、ほぼ七倍になります」
「 六十五万八千五百三は、三かける二十九、八十七の三乗です」(221ページ)
漢数字というのはつくづく読みにくいですね。馴れの問題なのでしょうか?
「一フィートを三・五ミリに縮小するのは、ドイツで発明されたミニチュア・モデルでは一般的で、世界のほとんどの国が、この縮尺を採用しています」(222ページ)
というのはおもしろい豆知識ですね。
<蛇足3>
手元にある、2022年4月15日第1刷版では、上で引用したように、あらすじには「センタアメリカ」と書かれていますが、本文中は「センタメリカ」です。
君たちは絶滅危惧種なのか? [日本の作家 森博嗣]
君たちは絶滅危惧種なのか? Are You Endangered Species? (講談社タイガ)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2021/04/15
- メディア: 文庫
<カバー裏あらすじ>
触れ合うことも、声を聞くことも、姿を見ることすら出来ない男女の亡霊。許されぬ恋を悲観して心中した二人は、今なお互いを求めて、小高い丘の上にある古い城跡を彷徨っているという。
城跡で言い伝えの幽霊を思わせる男女と遭遇したグアトとロジの許を、幽霊になった男性の弟だという老人が訪ねてきた。彼は、兄・ロベルトが、生存している可能性を探っているというのだが。
2023年1月に読んだ7冊目の本です。
森博嗣のWWシリーズの、
「それでもデミアンは一人なのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「神はいつ問われるのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「キャサリンはどのように子供を産んだのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「幽霊を創出したのは誰か?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
に続く第5作です。
君たちはというのは人類を指すのでしょうから、絶滅危惧種と言われるとちょっとドキッとしますね。
前作では幽霊が出てきましたが、今回は恐竜などが登場します。
舞台はドイツの自然公園。なかには動物園も水族館もあります。
前作からさらに時代が進んでいるのか、
「しかし、今や肉体は再生できる。致命的な傷を負っても、さらに肉体が完全に消滅しても、もう一度、ボディを作り直すことができる。だからこそ、ヴァーチャルへ人格をシフトさせることが現実となり、今後の人類の大移動がじわじわと始まろうとしている。」(29ページ)
とさらっと書いてあります。
この点をめぐって思索が続くわけですが、
「現在の記憶と、頭脳の計算能力をデジタルで移植したとき、たしかに、そこに同等の機能が再現できる。生きている感覚もたしかに得られるだろう。人間の心、スピリッツは、ヴァーチャルでも遜色なく活動するし、むしろより活発に機能するだろう。
しかし、本当にそれが生きていることになるのだろうか?
この思考が行き着くところは、生きていることの価値は何か、である。」(200ページ)
というのは理解できますし、
「人は、死を想うものです」「死を想うからこそ、優しくなれる。正義の根源はそこにありました。死を想像できない者は、もはや人間ではないかもしれませんね」(207ページ)
というのはなるほどと思えなくもないのですが、
「我々は、かなり高い環境適用能力を持っています。理屈で考える思考能力を有しているからです。本能的なもの、感情的なものは、やがては消滅するか、少なくとも薄らいでいくのではないでしょうか」
「なるほど、人間の感情というものが、絶滅するということですね」
「既に、何世紀もまえに絶滅していた、ともいえます」(296ページ)
となってしまうと、ちょっと怖いな、という印象を持ってしまいます。
これはグアトとクーパ博士の会話で、
「宗教や神のために人が殺され、人種が違うというだけで暴動や戦争になった時代が過去にある。そういった野蛮な思想は、まちがいなく感情的な心理から発していたものだろう。たしかに、人類はそれを克服したかに見えるが、実は、感情そのものが生きる場を失い、人知れず衰退していったのかもしれない。もしそうなら、原因は科学だ。」(296ページ)
とグアトにより敷衍されていますが、どうなのでしょうか?
感情を失った人間(というよりは人類というべきかもですが)は、それはそれで恐怖の対象のように思えます。
まあ、もはや人間ではないとまで議論は進んでいるのですが。
最後に、今ではすっかりおなじみになったトランスファですが、さらっと定義(?) されていたので写しておきます。ついでにウォーカロンも。
「トランスファは、ネット環境に生息する分散型の人工知能の総称だが、その存在が初めて確認されたのが、当のデボラだった。」(27ページ)
「さて、では、ウォーカロンとは何なのか。
簡単に言ってしまえば、人工的に生まれた人間である。肉体的には、人間とほとんど違いがないので、見分けはつきにくい」(28ページ)
いつものように英語タイトルと章題も記録しておきます。
Are You Endangered Species?
第1章 なにかが生きている Something is alive
第2章 死ぬまでは生きている Alive until death
第3章 長く死ぬものはない Nothing dies long
第4章 長く生きるものもない Nothing lives long
今回引用されているのは、コナン・ドイルの「失われた世界」(創元SF文庫)です。
同書は伏見威蕃の訳バージョンもあるんですね。
「失われた世界」 (光文社古典新訳文庫)
子ども時代に子ども向けで読んだだけだし、コナン・ドイルだし、読み返してみようかな?
<蛇足1>
「 セリンが、両手をテーブルの上に出し、ホログラムを投映させた。」(27ページ)
投映? 投影ではないの? と思いましたが、今では投映という表記もあるのですね。
<蛇足2>
「人間というのは、じわじわと同胞が死んでいっても、それは自然の摂理だと諦める図太さを持っているのだ。自分が死ななければ、それで良い、自分の家族さえ生きていればかまわない、と考える。数十年後にはこんな世界になる、と科学者が提示しても、そのときには、どうせ自分は生きていない、と受け合わない。」(146ページ)
知能を獲得したところで、そうでもなければ種として存続できないのかもしれませんね。
<蛇足3>
「キリンもいた。無駄に首が長いように思える。ゾウの鼻のようなものかもしれないが、ほかに類似の動物がいないことが、不思議である。やはり、デメリットが多く、自然界では失敗作だったのではないだろう、かと僕は考えた。」(225ページ)
失敗作ですか......キリンがかわいそう。
僕はゾウの鼻は失敗作と考えているのでしょうか? ゾウも類似の動物がいないように思います。
<蛇足4>
「『たまには、これくらいの刺激がないと、躰が鈍りますよね』
では、あのシャチとか恐竜とかミサイルとか黒ヒョウとかは、たいした刺激ではなかったということだろうか。」(276ページ)
相変わらずグアトのユーモアの回りくどさには笑ってしまいますが、あれ? ひょっとしてここは真面目なのでしょうか?
<蛇足5>
「地元の警官が来ていて、日本からの要人が来る、と聞いている、と話した。その要人が僕だと勘違いしたようだが、そのまま正さなかった。僕だけが男性で若くなかったからだろう。」(277ページ)
この物語の背景となる年代でも、ある意味男性優位な部分が残っているということですね。
幽霊を創出したのは誰か? [日本の作家 森博嗣]
幽霊を創出したのは誰か? Who Created the Ghost? (講談社タイガ)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2020/06/19
- メディア: 文庫
<カバー裏あらすじ>
触れ合うことも、声を聞くことも、姿を見ることすら出来ない男女の亡霊。許されぬ恋を悲観して心中した二人は、今なお互いを求めて、小高い丘の上にある古い城跡を彷徨っているという。
城跡で言い伝えの幽霊を思わせる男女と遭遇したグアトとロジの許を、幽霊になった男性の弟だという老人が訪ねてきた。彼は、兄・ロベルトが、生存している可能性を探っているというのだが。
2022年9月に読んだ6冊目の本です。
森博嗣のWWシリーズの、
「それでもデミアンは一人なのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「神はいつ問われるのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「キャサリンはどのように子供を産んだのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
に続く第4作です。
タイトルに「創出」という固い語が使われているのでおやっと思いました。
いままでのシリーズタイトルと比べて格段に硬質な感じがするからです。
でも、考えてみると「創出」以外に言いにくいですね。
ここは個々の幽霊がどうして幽霊になったのか? という文脈というよりはむしろ、幽霊という概念がなぜ生み出されたのか?というニュアンスで使われていると思うからです。
端的にグアトが
「どうして、人間は、幽霊のような存在を発想したのかな。どんな需要があったのでしょう。」(59ページ)
という場面もあります。
「ある一人のウォーカロンだった経験を持つ知性が、次のウォーカロンに乗り移る」「これは、いわゆる幽霊や亡霊に近いイメージ、ではありませんか?」(58ページ)
というのも面白い疑問ですね。
これまでのところ、リアルとヴァーチャルをどう捉えるかというのがWWシリーズのテーマなのかな、と思えているのですが、リアルとヴァーチャルという対比で進んできた思索が、「幽霊」という存在をフィルターとしてあらたな角度で検証される、という感じでしょうか。
今の技術では、人間の感覚のほとんどを仮想体験させることを実現した。したがって、既にリアルでしか得られない価値はない。それなのに、まだリアルに自分が存在するという意識を捨てられない人が多いはず。(281ぺージ)
この「幽霊を創出したのは誰か?」 (講談社タイガ)で扱われる幽霊騒ぎも、このことを十分に意識したものです。
しかし、リアルかヴァーチャルかも大きい課題だと思うのですが、このシリーズの設定である、ほぼ人は死なない、という方がインパクトが大きいのではなかろうか、と思ったりもしました。
そして展開される議論(思索)も、死なないからこそ、という展開をとっているように思えます。
いつものように英語タイトルと章題も記録しておきます。
Who Created the Ghost?
第1章 誰が魂を連れてきたの? Who brought the soul?
第2章 誰が霊を組み立てたの? Who built the spirit?
第3章 誰が心を凍らせたの? Who froze the heart?
第4章 誰が人を造形したの? Who shaped the human?
今回引用されているのは、コーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」 (ハヤカワepi文庫)です。
<蛇足>
「入ってみると、絨毯がブルーのプレィルームだった。」(163ページ)
プレィって、どう発音するのでしょう?
キャサリンはどのように子供を産んだのか? [日本の作家 森博嗣]
キャサリンはどのように子供を産んだのか? How Did Catherine Cooper Have a Child ? (講談社タイガ)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2020/02/21
- メディア: 文庫
<カバー裏あらすじ>
国家反逆罪の被疑者であるキャサリン・クーパ博士と彼女の元を訪れていた検事局の八人が、忽然と姿を消した。博士は先天的な疾患のため研究所に作られた無菌ドームから出ることができず、研究所は、人工知能による完璧なセキュリティ下に置かれていた。
消えた九人の謎を探るグアトは、博士は無菌ドーム内で出産し、閉じた世界に母子だけで暮らしていたという情報を得るのだが。
森博嗣の新しいシリーズ、WWシリーズの、
「それでもデミアンは一人なのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
「神はいつ問われるのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)
に続く第3作です。
あらすじにも書かれている人間消失が事件で、作中136ページでヴォッシュ博士が指摘しているように真賀田博士の事件と似通っているところがポイントですね。
森博嗣の本を読むといつも思うのは、「すべてがFになる」 (講談社文庫)と比べると、遥けき地点まで来たなぁという感慨です。
この人間消失の真相も、真賀田博士の事件とは異次元の解決を見せます。
このレベルになるとさわりを出してもネタバレにはならないでしょうから、自分の備忘として引用しておきます。
「生命ではなく、存在なのだ。
存在こそが、最も重要な、この世界を形成するユニットであり、基本だ。
リアルとヴァーチャルの両立は、あらゆる存在を脅かす。物体とは、単にリアルの存在の総称でしかない。存在は既に、原子からなる物体よりも、その焦点を引く視線でしか捉えることができないものになっているのだ。」(249ページ)
しかし、こんな地点までたどり着いてしまうと、このあと物語はどこに向かうのでしょうね?
森博嗣の中では、すっかり地図が出来上がっているのでしょうけれど。
それはリアルとヴァーチャルの全き融合なのかも、ですね。
Wシリーズのように英語タイトルと章題も記録しておきます。
How Did Catherine Cooper Have a Child ?
第1章 どのように彼女は姿を消したか? How did she disappear?
第2章 どのように彼女は届けられたか? How did she arrive?
第3章 どのように彼女は破壊したか? How did she destroy?
第4章 どのように彼女は生かされたか? How was she alive?
今回引用されているのは、グレッグ・イーガンの「ディアスポラ」 (ハヤカワ文庫 SF)です。
<蛇足1>
「いきなり、だからねって」テーブルの椅子に座っていたロジは吹き出した。(13ページ)
あれ? ロジってこういう反応をする人でしたか?
グアドとの関係性がどんどん変わってきている証左かも。
<蛇足2>
「幸い、僕には研究という大賞があった。それに打ち込んできたから、ほかのさまざまな不満に出合わなかった。その点では、今は少しだけ不安を感じている。研究から離れたこともあるし、大切な人ができたこともある。失うものを得てしまった、ともいえるだろう。」(33ページ)
さらっとグアドがすごいことを言っています!
<蛇足3>
「しばらく、マシュマロのように柔らかい沈黙が続いた。」(48ページ)
マシュマロのような柔らかい沈黙、ですか。
張りつめたような緊張感漂う沈黙とは正反対の沈黙なのでしょうね。
<蛇足4>
「ああ、ちょっと、考えごとをしていた」僕は彼女に言った。
「そうでしょうね、きっと」ロジは猫のように微笑んだ。(250ページ)
猫のように微笑む......
ロジが!?
神はいつ問われるのか? [日本の作家 森博嗣]
神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned? (講談社タイガ)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2019/10/23
- メディア: 文庫
<カバー裏あらすじ>
アリス・ワールドという仮想空間で起きた突然のシステムダウン。ヴァーチャルに依存する利用者たちは、強制ログアウト後、自殺を図ったり、躰に不調を訴えたりと、社会問題に発展する。仮想空間を司る人工知能との対話者として選ばれたグアトは、パートナのロジと共に仮想空間へ赴く。そこで彼らを待っていたのは、熊のぬいぐるみを手にしたアリスという名の少女だった。
森博嗣の新しいシリーズ、WWシリーズの、「それでもデミアンは一人なのか?」 (講談社タイガ)(感想ページはこちら)に続く第2作です。
いつも一筋縄ではいかないのですが、今回のタイトル、難しいですね。
「神はいつ問われるのか?」 When Will God be Questioned? (講談社タイガ)
ぱっと見て、神様はいつお尋ねになるのか? ご質問されるのか? という意味かなと思ったのですが、英語タイトルを見ると、逆ですね。神様はいつ疑問視、問題視されるのか? という意味になっています。おもしろそう。
もともと、真賀田四季が構築した(んですよね?)コンピュータが高度に発達した世界を舞台にしていますが、今回は、さらに仮想空間が出てきます。
虚か実かという議論が、さらに進んで、神と対座するレベルにまで至った、ということでしょうか。
もっとも、真賀田四季が神のような気もしますが(笑)。
エピローグでグアトとロジが交わす会話が、一周回ってドンって感じで、非常に単純な会話になっているのがポイントなのかもしれません。
しかし、Wシリーズのときと比べると、グアトとロジの距離感が大きく異なっている気がします。特に、グアトサイド。
ロジはあまり変わっていないように思えるのですが......
「ロジは、黙って僕を見た。ジョークを全反射する技である。」(20ページ)
という定番の?シーンもありますし。
ロジと言えば、車好き(運転好き?)だったんですね。
それが知れて、楽しかったです。
最後に
「宇宙の最後ってやつは、もうわかっている。眠くなって、寝るだけ」(281ページ)
いいこと言いますね、グアト(笑)。
Wシリーズのように英語タイトルと章題も記録しておきます。
When Will God be Questioned?
第1章 楽園はいつ消えるのか? When will Paradise disappear?
第2章 人はいつ絶滅するのか? When will mankind disappear?
第3章 世界はいつ消滅するのか? When will the world disappear?
第4章 神はそれらよりもさきか? Will God disappear before them?
今回引用されているのは、カート ヴォネガットジュニア「スローターハウス5」 (ハヤカワ文庫SF)です。
それでもデミアンは一人なのか? [日本の作家 森博嗣]
それでもデミアンは一人なのか? Still Does Demian Have Only One Brain? (講談社タイガ)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2019/06/21
- メディア: 文庫
<裏表紙あらすじ>
楽器職人としてドイツに暮らすグアトの元に金髪で碧眼、長身の男が訪れた。日本の古いカタナを背負い、デミアンと名乗る彼は、グアトに「ロイディ」というロボットを探していると語った。
彼は軍事用に開発された特殊ウォーカロンで、プロジェクトが頓挫した際、廃棄を免れて逃走。ドイツ情報局によって追われる存在だった。知性を持った兵器・デミアンは、何を求めるのか?
ここから8月に読んだ本の感想です。
森博嗣の新しいシリーズ、WWシリーズの第1作です。
前までのWシリーズとはかなり近しい地続きですが、登場人物が変わっているのですね、とあらすじを読んで思ったのですが、そうではありませんでした。
Wシリーズのハギリとウグイたちが名前を変えて登場しているようです。
あらすじのグアトがハギリ、ロジがウグイですね。
ハギリは、引退して穏やかな生活を送ろうとしているようですが、そうは問屋が、いや森博嗣と読者が卸しませんね(笑)。
Wシリーズとの間でどのくらい時間が空いているのかわからないのですが(なにしろこの世界では基本的に人間は死ななくなっていますから)、シームレスにすっと世界に入っていけます。
タイトルにもなっているデミアンがもたらした騒動で、グアトの思索がぐっと進んだようです。
「人間ではないもの、人間が作ったものが、人間以上に人間らしくなり、人間以上に正しく生きる世の中が来る。きっと来るだろう。否、もう来ているのかもしれない。
子供が生まれないというだけのことで、人間は後れを取った。歩みを止めたのかもしれない。つまり、進化していない、ということだ。その間に、ウォーカロンも人工知能も人間を追い越していくだろう。彼らは常に生まれ変わっている。人よりも早く進化しているのだ。」(210ページ)
これは、なかなかの世界観ですよね。そしてそれをグアトは美しいと捉える。うーん、すごい。
「電子空間に生を受けた者たちは、皮膚のようなものはない。どこからが内側で、どこからが外側といった位置的な境界が明確ではないからだ。電子の生物たちは、個という概念も将来曖昧である。これも内か外かが定義できないためだ。」(225ページ)
と人間と電子空間の存在の違いを確認した後でもたらされる思索はスリリングですね。
「トランスファが活動することが、共通思考そのものだともいえる。」(228ページ)
だからこそ、
「ある一人の人間を、電子社会へ招き入れる。その人は刺激を受けて、つぎつぎに新しい発想をしました。このことが、まるでトランスファの裏返しであり、似ていると思います。先生は、向こうから見れば、トランスファなのです。」(234ページ)
というオーロラのセリフとなるわけですね。
停滞し技術が飽和している世界は、突破するために発想というアクシデントに期待するしかない。
これには時間がかかる。
「だから、全体の時間を遅く設定したんだ」「マガタ博士の共通思考が、これまでの人類史の時間に比べて、遅い速度設定になっているように感じたのですが、そこで調節しているというわけですよ」(236ページ)というグアトのセリフには眩暈がしそうです。
マガタ博士すごい。
そして森博嗣、すごい。
デビュー作である「すべてがFになる」 (講談社文庫)の頃から、ここまで考えておられたのでしょうか?
否、この質問の仕方は正しくないですね。
きっとデビューに関係なく、森博嗣さんが以前から考えてこられた全体像を、さまざまな作品を通して少しずつ小出しに(?) されていっているだけなのでしょうね。
ここからさらにどこへ連れて行ってくれるのか、とても楽しみです。
Wシリーズのように英語タイトルと章題も記録しておきます。
Still Does Demian Have Only One Brain?
第1章 一つの始まり One beginning
第2章 二つ頭の男 Two headed man
第3章 三つの秘策 Three secrets
第4章 四つの祈り Four prayers
今回引用されているのは、アイザック・アシモフ「ファウンデーション」 (ハヤカワ文庫SF)です。
創元推理文庫版では、「銀河帝国の興亡」というタイトルですね。
<蛇足1>
森博嗣の作品では、たとえば「コンピューター」は「コンピュータ」と表記されています。
なので、カタカナ表記の語末の長音符号(音引き)は書かないのかな、と思っていたら、
71ページに「コーヒーを淹れましょうか?」
となって、あれっと思いました。
ほかにも、
インタビュー(114ページ)
パトカー(148ページ)
スロー(158ページ)
スキー(260ページ)
などで語末の長音記号が出てきます。
また、ロータリィ(194ページ)、エネルギィ(200ページ)、ストーリィ(229ページ)のような表記もあります。
一方で、ディナ―ではなくディナ(148ページ)、シャッターではなくシャッタ(同148ページ)、サーバーではなくサーバ(158ページ)となっています。
語末の長音符号については以前にもあれっと思ったことがあって、
「ペガサスの解は虚栄か? Did Pegasus Answer the Vanity?」 (講談社タイガ)(感想ページへのリンクはこちら)では、トウキョー
「天空の矢はどこへ? Where is the Sky Arrow?」 (講談社タイガ)(感想ページへのリンクはこちら)では、シチュー
と書かれていたことについて触れました。
これ、今回改めて調べて(?) みると、工学分野ではごく普通の表記で、JIS(日本工業規格)や学会・協会でも標準となっている書き方があるようです。
「2音の用語は長音符号を付け、3音以上の用語の場合は長音符号を省く」というルールらしいです。
森博嗣さんはこれを採用しているのかな?
コーヒー、スロー、スキー、シチューは2音なので長音符号が使われているのですね。
パトカーは、パトロールカーの略で合成語。本来のカーが1音だからでしょうね。
インタビューは3音以上ですが、スペルの違いかな? ロータリィなどの「ィ」表記もスペルによるのでしょうね。
でも、ディナ、シャッタ、サーバあたりは2音なので長音符号を使うところなんじゃないかな、なんて思ったり。
ちなみに、1991年に発表された内閣告示「外来語の表記」では「英語の語末の-er,-or,-arなどに当たるものは原則としてア列の長音とし長音符号を用いて書き表す」とされています。これを受けてJISのガイドラインも2005年以降は「長音は用いても省いても誤りではない」という内容に修正されているそうです。
<蛇足2>
カタカナ表記ということでは、
クルマやキュースというのも出てきます。
今と時代も違いますし、ここに出てくる車や急須はわれわれの思い描く車や急須とは違うのですよ、ということを暗示しているのでしょうか?
<蛇足3>
帯に、講談社タイガの近刊案内が書かれているのですが、
小島正樹の「ブラッド・ブレイン2 闇探偵の暗躍」 (講談社タイガ)が、「ブレッド・ブレイン2」と誤植されているのに笑ってしまいました。
パン探偵? それはそれでおもしろいかも。
人間のように泣いたのか? [日本の作家 森博嗣]
人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly? (講談社タイガ)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2018/10/24
- メディア: 文庫
<裏表紙あらすじ>
生殖に関する新しい医療技術。キョートで行われる国際会議の席上、ウォーカロン・メーカの連合組織WHITEは、人口増加に資する研究成果を発表しようとしていた。実用化されれば、多くの利権がWHITEにもたらされる。実行委員であるハギリは、発表を阻止するために武力介入が行われるという情報を得るのだが。すべての生命への慈愛に満ちた予言。知性が導く受容の物語。
Wシリーズの第10作で、最終作です。
今回の舞台は京都です(キョートと書かれています)。
国際会議をめぐって事件が起こりますが、いままでで一番派手な戦闘がありますし、いままでで一番ハギリが危険な目に遭います。
「これまでの僕は、もっと静かな世界で生きてきた。情報局に所属し、デボラやアミラがいろいろと教えてくれるようになったから、初めて関わるようになったこと、といえるだろう。かつて僕の研究室で爆弾騒ぎがあったり、武力集団に襲われたり、理由のわからないことが勃発したのだ。」(91ページ)
ハギリ博士の回顧ですが、まったくその通りですね。ハギリ博士もこのシリーズで大変な目に遭ってきています。
離れたはずのウグイが、ハギリ博士と共に行動するところがポイントでしょうか(笑)。
今回のエピローグなんて、そのためだけにあるようなもんですよね(笑)。
長い長い、ボーイ・ミーツ・ガール物語だった、ということでしょうか、このシリーズは。
ただ、このタイトル「人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?」というのは、英語タイトルからしても、ウグイのことを指すんだろうな、と思えるのですが、それだとちょっとウグイに失礼ですよねぇ。
ウグイって、人間ですよね?
人間のウグイに「人間のように」というのは少々可哀そうです。
このシリーズ、ならびにハギリはウグイにキツいことが多かったですけど、最後もそうなんですか!?
人間とウォーカロンを分けているこういう考え方自体が時代遅れかも!?
シリーズ注目の、というより森ミステリでは注目のマガタ博士についても、ハギリが考察を進めています。
「マガタ博士はきっと、ずっと遊んでいるだけなんだよ。もう、若いときに仕事はやり尽くしてしまったから。ただ、周囲はそうは見ない。マガタ博士が遊んでいても、きっとあれはなにか意図があるはずだ、博士は次は何をするつもりだろう、と憶測しようとする。これまでの博士を見てきたから、そう考えてしまう。でも、そこが天才ではない凡人の思考というものだ。もともと天才は、遊び半分で、偉業を成し遂げるものだ。本人には、偉大な仕事をしようなんて気は最初からない。遊んでいるにすぎない。子供のときからの延長で、ただ興味の向くまま、好きなことをしているだけなんだ。」(158ページ)
遊んでてあれかよ、という気もしますが、それこそが天才の所以なのでしょうねぇ。
そのマガタ博士に対して、ハギリが最後に質問を投げます。(277ページ)
「あの、失礼を覚悟でおききしますが、博士は、人間でしょうか?」
それに対するマガタ博士の返事は伏字にして(色をかえて)おきます
「それは、失礼な質問ではありません。誰にしても、また、自分に対しても、いつでもそれを問うことが、人間というもの」
それ以外にも示唆的な会話になっています。いつも通り。
厨房から料理を出してしまった後、一流の料理人にできること、という問いもおもしろいですよね。
「ただ、ぼんやりと、月夜の空でも眺めましょうか」(276ページ)
これまた、天才ならではと言うか、なんと言うか......
シリーズは完結しましたが(森ミステリではいつものことながら、数多くの謎や余韻を残して)、新しいシリーズが立ち上がっています。題してWWシリーズ。
第一作は「それでもデミアンは一人なのか? Still Does Demian Have Only One Brain?」 (講談社タイガ)。楽しみです。
いつものように英語タイトルと章題も記録しておきます。
Did She Cry Humanly?
第1章 非人道的に Against humanity
第2章 彼らの人間性 The humanity of them
第3章 人類全体 All humanity
第4章 慈悲をもって With humanity
今回引用されているのは、アーシュラ・K・ル・グィンの「闇の左手」 (ハヤカワ文庫 SF)です。
<蛇足1>
「世の中というものは、ままならないものだ。誰もが恐れる方向へ、じわじわと近づくことだってある」(41ページ)
ポスト・インストール(一種のトラブル防止プログラム)しないウォーカロンを作るかどうか、という議論でヴォッシュ博士の言うセリフなのですが、怖いですね.....
<蛇足2>
「ロビィに、黒い板が並んでいて、そこに〈ハギリ様ご一行〉とあったので」(44ぺージ)
未来でも日本のホテルにはこういうのがあるんですね(笑)。
しかし、この作品のような状況でハギリ様ご一行って書きますかねぇ?? とは思いますが。
<蛇足3>
『こちらは、要約すると「よろしく」になる。だいたい、社会の会話の半分はこれだし、日本の書類の半分は、要約するとこれになる。」(45ページ)
ハギリが届いたメッセージへの返信について述べた文章ですが、なるほどと思いました。
「よろしく」
書類の半分がそうかはわかりませんが、かなりの割合を占めることは確かですね.....
<蛇足4>
第3章冒頭の「闇の左手」 からの引用ですが...
氷の像の一つが言った。「われは血を流す」もう一つの像が言った。「われは泣く」また三つ目の像が言った。「われは汗を流す」(155ページ)
この2番目、どうして「われは涙を流す」ではないのでしょうか?
~を流す、でそろえたほうがよいように思います。巻末によると小尾芙佐さんの訳のようですが。
天空の矢はどこへ? [日本の作家 森博嗣]
天空の矢はどこへ? Where is the Sky Arrow? (講談社タイガ)
- 作者: 森 博嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2018/06/22
- メディア: 文庫
<裏表紙あらすじ>
カイロ発ホノルル行き。エア・アフリカンの旅客機が、乗員乗客200名を乗せたまま消息を絶った。乗客には、日本唯一のウォーカロン・メーカ、イシカワの社長ほか関係者が多数含まれていた。時を同じくして、九州のアソにあるイシカワの開発施設が、武力集団に占拠された。膠着した事態を打開するため、情報局はウグイ、ハギリらを派遣する。知性が追懐する忘却と回帰の物語。
Wシリーズの第9作です。
今回の舞台は阿蘇です(アソと書かれています)。
ここ数冊シリーズ終盤に向かっているからか、思索的な部分が減ってきたかな、と思っていたのですが、本書のエピソードで、ずっしりと重い思索が登場します。
いつものようにその分を引用して書いてしまっては、ネタバレ、に該当してしまうことになるだろうと思うので当該部分の引用は避けますが、
「ああ、今の話は……、ちょっと感動しました」(273ページ)
とハギリが感想を述べている、ということは触れておきたいと思います。
「九州のアソにあるイシカワの開発施設が、武力集団に占拠された」というあらすじから、おっ、戦闘シーンがあるな、これは、と期待したら(何を期待しているのだ、と叱られるかもしれませんが、このシリーズの戦闘シーン、なんだか愉しいんですよね)、肩透かしでしたね。
その分(?)、キガタが宇宙に飛び出します。
他の森作品につながる固有名詞もふんだんに登場するようになってきています。
クジ博士、ロイディ、ミチル......
次の「人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?」 (講談社タイガ)でシリーズ完結なんですよね。
いったいどういう着地を見せるのでしょうか...,,,
この「天空の矢はどこへ? Where is the Sky Arrow?」 (講談社タイガ)には
「マガタ・シキが生きているかどうかを、今の僕は疑っていない。」(197ページ)
なんて刺激的な部分もありますしね。
楽しみです。
いつものように英語タイトルと章題も記録しておきます。
Where is the Sky Arrow?
第1章 歩き回る Getting around
第2章 通り抜ける Getting through
第3章 逃げていく Getting away
第4章 乗り越える Getting over
今回引用されているのは、レイ・ブラッドベルの「何かが道をやってくる」 (創元SF文庫)です。
<蛇足1>
『「食事は、経費?」僕はウグイに尋ねた。
彼女は、僕を威圧的な眼差しで睨んだだけで答えなかった。冗談が通じなかったようだ。下品な精神だと誤解された可能性もある。ウィットというものを、彼女にはもう少し学んでもらいたい。』(36ページ)
おそれながらハギリ博士、ウグイさんだけでなく、ぼくも貴方のウィットはわかりません...(笑)
<蛇足2>
「僕はシチュー定食だったけれど、熱くて食べられない。」(269ページ)
シチューはシチューと書くのですね。シチュではなく。
<蛇足3>
「忙しいようだ。アルミニウムみたいにドライだな、と思った。」(269ページ)
アルミニウムみたいにドライ? どんな雰囲気なんでしょうね?