ホッグズ・バックの怪事件 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<カバー裏あらすじ>
引退した医師ジェームズ・アールが消えた。自宅の居間で新聞を読んでいた、その三分後に・・・・・。失踪の数日前、彼はロンドンである婦人と一緒にいるところを目撃されていた。が、捜査に乗り出したフレンチ警部は、彼女もまた行方不明だと知る。そしてまた一人、アールの身辺から失踪者が! フレンチが64の手がかりをあげて連続失踪事件の真相を解明する、クロフツ屈指の本格推理!
2024年9月に読んだ6冊目の本です。
F・W・クロフツの「ホッグズ・バックの怪事件」 (創元推理文庫)。
創元推理文庫2020年の復刊フェアの1冊です。
アール医師の失踪事件。妻ジューリアには隣人スレイドとの不倫の影。
ところがアール医師は、ロンドンで知り合いのナンキヴェル看護婦と密会していたようで......
そのナンキヴェル看護婦も姿を消しており、失踪事件なのか、それとも死体の見つからない殺人事件なのか。
するとアール医師の家に客として来ていたアーシュラも姿を消し......
非常におもしろいプロットを持った作品だと思いましたので、これ以上ストーリーを割らない方がよいと思います。
フレンチ警部は、いつものように地道に捜査していきます。
じっくり、じっくり、着実に手堅く捜査していく様子がじっくり描かれます。
じれったく感じることもないではないですが、地に足のついた捜査を楽しむことができます。一緒に捜査しているような感覚でしょうか。
本書の特徴は「フレンチが64の手がかりをあげて連続失踪事件の真相を解明」と引用したあらすじにも書いてある、いわゆる手がかり索引の趣向です。
第22章の ”フレンチの推理” の冒頭、
「物語を楽しむ読者のために、つぎの説明の中に、フレンチが結論を築き上げるための土台とした事実が述べられている参照ページを挿入する。」(325ページ)
と書かれ、真相が披露されていきます。
これ、本格ミステリファンならわくわく、楽しく読む趣向で、この作品もとても楽しく読みました。
細かな手がかりが組み合わされて、おもしろいプロットをフレンチが暴く様子はとても楽しい。
読み飛ばしていた箇所や何気ない箇所が、解決編に至って、光を輝き始める。
ミステリの醍醐味ですね。
なんですが、本書に関して言うと、この手がかり索引、あまりよろしくない、と思いました。
というのも、それまで、きわめて地道で着実な捜査を進めていたフレンチ警部が、急に一足跳びに真相に至って、急に事細かに手がかりを挙げて説明する、というのは、作風と合致していないと思ったからです。
ずっと読者と伴走してくれていたかのようだったフレンチ警部が、突然ラストスパートで猛ダッシュをかけて読者を置いてけぼりにしてしまったかのよう。
これでは困る、と感じました。
凡人ワトソン役の目で捜査が描かれていて、神の如き名探偵がいままでの伏線を一気に回収して解決し読者が感嘆する、というのであればいいのですが(訳者あとがきで例に出されているカーの「盲目の理髪師」(創元推理文庫)(感想ページはこちら)や「孔雀の羽根」 (創元推理文庫)は神の如き名探偵のパターンですね)、フレンチ警部の視点で一歩一歩積みあげて来ていたのに、この趣向のためだけに、最後で突然の変節。
よく練られたプロットだけに、余計にそう感じてしまったのかもしれません。
まあ、これは無理筋の指摘というものでしょうね。
ぼくのようにあまり変なことを考えず、よくできた作品をお楽しみください。
<蛇足1>
「そのまた下には肉太のキャピタルで ”料金” という字が」(77ページ)
キャピタルですか。どうして ”大文字” としなかったのでしょうね?
<蛇足2>
「そうしたことをしらべていただければ、わたしは一般発表の準備をしますが」(92ページ)
フレンチ警部と、ファーナム警察署のシーフ警視との会話です。
一般発表ってなんでしょうね?
<蛇足3>
タイトルのホッグズ・バックは地名で「豚の背のように丸みをおびた山稜のこと」と11ページに訳注がついています。豚背山? 豚背丘?
原題:The Hogs Back Mystery
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1933年
訳者:大庭忠男
クロフツ短編集 2 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<カバー裏あらすじ>
1巻に引き続き、本邦初訳作品多数を含むF・W・クロフツの短編を収めたファン必携の作品集。アリバイ破りの名手にして、丹念な捜査と推理が持ち味のフレンチ警部のかがやかしい功績を描く。絵画購入依頼が意外な展開を見せる「グルーズの絵」、アンソロジーに書き下ろした“完全犯罪"に実在の元警視が挑んだ解決編が付属する「小包」など、多彩な作風が楽しめる全8編を収録。
2024年5月に読んだ 10冊目の本です。
「クロフツ短編集 2」 (創元推理文庫)。
「クロフツ短編集 1」 (創元推理文庫)(感想ページはこちら)と同時に復刊されましたものです。創元推理文庫2019年の復刊フェアの1冊。
ペンバートン氏の頼まれごと
グルーズの絵
踏切り
東の風
小包
ソルトバー・プライオリ事件
上陸切符
レーンコート
の8編収録。
「クロフツ短編集 1」は、同じ倒叙形式の21編が収録されていましたが、こちらはパターンが異なる作品を収録しています。
冒頭の「ペンバートン氏の頼まれごと」は、タイトルにもなっているペンバートン氏が、パリからイギリスへむかう列車の中で若い女性から頼まれごとを引き受けた顛末を描いています。大方の読者の予想通りの展開なのだとは思いますが、するすると事態が進んでいくのが楽しい。
「グルーズの絵」は代理業者(今風にいうと便利屋さんでしょうか?)が絵の買取を依頼され、首尾よくいったものの、その絵は模写であることが判明し......という話。
「踏切り」は完全犯罪を目指した男だったが、思わぬ事態に...... 最後の一文の皮肉が効いています。
「東の風」はフレンチ警部がパディントンから乗った列車で遭遇したホールドアップから始まる事件。フレンチ警部のこと、首尾よく事件を解決に導くのですが、そもそも警部がその列車に乗る理由だった用事はどうなってしまったのでしょうね(笑)?
次の「小包」は異色作です。
「考え得るかぎり完全に実行されたと思う殺人を、紙上で、犯す」という出版社の求めに応じてクロフツが書き上げた完全犯罪を、そのあとで元スコットランドヤードの警視が検証する、という企画もの。
おもしろい。
途中図入りで解説される殺人の仕掛けにはまったく惹かれなかったのですが、この趣向は面白いですね。
元警視、あれこれ言って完全犯罪ではないと論破しようとしていますが、「もしかすると」と捜査側に都合のいい推測が連発で、軍配はクロフツに上げたくなりました。
「ソルトバー・プライオリ事件」はデボンで休暇中のフレンチ警部が巻き込まれる事件。
まあ、ミステリでは割とよくあるパターンですが、
被害者の妻から捜査を頼まれても「わたしは自由なからだではなくて、ヤードの使用人なのです。土地の警察が問題を扱っていて、必要なことはなんでもするでしょう」(179ページ)と断っておきながら「わたしといっしょに出向いて、ひととおり見ていただくのは、どうでしょう? まったくの非公式にです」(180ページ)と現地の警察に言われ「むろん、非公式にだったら、やれないことはない」(180ページ)と考えて事件に関わっていきます。
これ、組織の論理からするとこんなに簡単ではないですよね(笑)。
拳銃の扱いが、単純ながら面白いと思いました。
最後の「上陸切符」は、倒叙ものです。今とは仕組みの違う、ドーバー海峡を渡る列車と船の仕組みがポイントになっているので、ちょっと今の日本人には想像しづらいところもあるのですが、なんとかフレンチ警部と同じ手がかりには辿り着きそうです。ただ、パスポートっていらなかったんでしょうか?
不思議です。
「クロフツ短編集 1」は同じパターンの物語のリズムを楽しみましたが、この「クロフツ短編集 2」 はバラエティを楽しみました。
ちょっと訳語が時代を感じさせてしまうので(なにしろ初版が1965年)、この本も新訳にしてくれるとよかったかも、と思いました。
<蛇足1>
「身動きひとつできないうちに、ピストルのまちがったはしのほうを突きつけられていたんです」(98ページ)
”ピストルのまちがったはし” ってなんでしょうね?
<蛇足2>
「いまは、まだ九時だ。時間はたっぷりある。かあちゃん、一杯注いであげなさい」(188ページ)
フレンチ警部が妻に呼びかける二人称は「かあちゃん」なんですね(笑)。
<蛇足3>
「『陰徳あれば陽報ありさ』と出納係はなぐさめて」(202ページ)
このことわざ、知りませんでした。
<蛇足4>
「いつものとおり、バンク(イングランド銀行)の地下鉄駅のほうへ道をつづけた。」(202ページ)
地下鉄のバンク駅の名前はイングランド銀行から来ているのですが、そのことを示す訳注ですね。
通常は「地下鉄のバンク駅」という風に書くところでしょう。
「カールはバンクのほうへ道をつづけるかわりに、南へ曲がって、キャノン・ストリートに出た。そこで、ビクトリア駅行きの郊外列車に乗った。」(203ページ)
キャノン・ストリート駅は確かに郊外に向かう列車の出発駅ですが、そういう列車に乗ってもビクトリア駅には行きません。キャノン・ストリートとビクトリアは、地下鉄でつながっています。
おかしいな、と思っていて気づきました。これきっと、地下鉄の District Line を郊外列車と訳したのでしょう。
<蛇足5>
「いつものとおり、バンク(イングランド銀行)の地下鉄駅のほうへ道をつづけた。」(202ページ)
地下鉄のバンク駅の名前はイングランド銀行から来ているのですが、そのことを示す訳注ですね。
通常は「地下鉄のバンク駅」という風に書くところでしょう。
「カールはバンクのほうへ道をつづけるかわりに、南へ曲がって、キャノン・ストリートに出た。そこで、ビクトリア駅行きの郊外列車に乗った。」(203ページ)
キャノン・ストリート駅は確かに郊外に向かう列車の出発駅ですが、そういう列車に乗ってもビクトリア駅には行きません。キャノン・ストリートとビクトリアは、地下鉄でつながっています。
おかしいな、と思っていて気づきました。これきっと、地下鉄の District Line を郊外列車と訳したのでしょう。
原題:The Mystery of the Sleeping Car Express and other strories
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1956年
訳者:井上勇
クロフツ短編集 1 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<カバー裏あらすじ>
英国本格派の雄クロフツが満を持して発表した、アリバイ破りの名手フレンチ警部のめざましい業績を綴る21の短編を収めた作品集。「いずれも殺人事件であって、しかも、犯人は必ずまちがいをして、そのためにつかまっている。そのまちがいに、読者が事前に気がつけば読者の勝ち、気がつかなかったら、筆者の勝ちというわけである」(まえがきより)と、読者に挑戦状を叩きつける。
2023年9月に読んだ3作目の本です。
「クロフツ短編集 1」 (創元推理文庫)
創元推理文庫2019年の復刊フェアの1冊で、「クロフツ短編集 2」 (創元推理文庫)と同時に復刊されました。
床板上の殺人
上げ潮
自署
シャンピニオン・パイ
スーツケース
薬壜
写真
ウォータールー、八時十二分発
冷たい急流
人道橋
四時のお茶
新式セメント
最上階
フロントガラスこわし
山上の岩棚
かくれた目撃者
ブーメラン
アスピリン
ビング兄弟
かもめ岩
無人塔
ざっと300ページほどの本に上記21編が収録されています。21編! 1編の長さは20ページに満たないものばかり。
巻頭辞によればすべて「イブニング・スタンダード」に掲載されたものということで、読者との勝負を意識していたよう。
いずれも倒叙形式で語られていて、前半が犯人の視点で犯行を、後半はその事件の犯人をクロフツ警部(あるいは作品によっては警視)が突き止める、追いつめる、という話になっています。
読んでみるとなんだかクイズみたい。味気ないなぁ、これは、これは好みに合わないな、と思っていました。
たしか鮎川哲也だったかと思うのですが、倒叙ミステリの犯行露見、犯人発覚についての手がかり、ポイントは、偶然や不可抗力によるものではなく、完璧にやってのけたと思われるところが思わぬ犯人のミス、というのがよい(望ましい、だったかもしれません)と言っていて、なるほど、と思ったことがあります。
この「クロフツ短編集 1」に収められた21編の手がかりについては、この要件を満たすものもあり、満たさないものもあり、さまざまなバリエーションが提示されます。
その意味では、このバリエーションを素直に楽しめばよいのですが、どうしても単調ですし、各編が短いのでそっけなく、パズルみたい、という感想になってしまったわけです。
ところが、です。
21編もあるからか、読み進んでいくうちに、この短編集のリズムにこちらが合ってきたのでしょうか、読むのが楽しくなっていったのです。
たしかに、一つ一つは大したことない(と言っては失礼ながら)ですし、犯人発覚の決め手となっているポイントもそれは決定打にはなっていないのでは?と思えるものもありますが、それでもこの短編集を読むのが楽しいと感じました。
ダメな点も含めて、読むのが楽しい、と思えたのです。
不思議。
ポイントとなる点以外でも、割とアラはあるんですよ。
(たとえば「かくれた目撃者」で、死体は見つかったのでしょうか?? 気になっています(笑))
でも、楽しい。
理由はよくわからないのですが、楽しい。本当に不思議です。
「クロフツ短編集 2」を読むのが以前より楽しみになってきました。
<蛇足1>
「彼はきわめてドライな性格な男で、彼にとっては殺人行為でさえ、十分な準備と冷静な態度で実行する、ひとつの企業にすぎなかったのだ。」(82ページ)
企業? ”事業” でも違和感がありますが、あえていうなら "事業" でしょうね、ここは。
あるいは本書刊行当時(奥付をみると初版は1965年12月)は、企業という語についてこういう使い方をしたんでしょうか?
<蛇足2>
「殺人を行おうとするほどの者は、その選ぶ手段についてはできるだけの知識をえておくことが必要であって、これは常識なのである。」(126ページ)
常識......こういうケースではあまり使わない用法ですね.....殺人者にとっての常識......
そもそも殺人という行為自体が、”常識”. という語が使われるほど一般的ではないはず(笑)。
<蛇足3>
「ロンドンにいったときに、彼の車につけるために、ちがった番号のついた新しいナンバー・プレートを買ってきた。」(158ページ)
イギリスの制度はわからないのですが(車を購入した際も中古の状態で買いましたので、ナンバー取得の部分にはまったく関与しませんでした)、ナンバー・プレートって簡単に買えるものなのでしょうか?
また変えたとしても、簡単に足がつくような気がします。
ちなみにイギリスでは車のナンバー・プレートは、車の前後で色が異なります。前側が白で、後は黄色のプレートがついています。
<蛇足4>
「資格のある看護婦を求む。アンギーナを病む老人の看護と、そのコッツウォルズの小さな家の管理をしていただきたし。」(256ページ)
アンギーナがわからなくて調べたのですが、狭心症と急性扁桃炎の二通りが出てきて迷ってしまいました。
作品での使われ方からすると狭心症のようでしたが......
原題:Many A Slip
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1955年
訳者:向後英一
二つの密室 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<カバー裏あらすじ>
両親亡き後つましく身を立てていたアン・デイは、願ってもない職を得てグリンズミード家に入った。夫人の意向を尊重しつつ家政を切り回しながら、夫婦間の微妙な空気を感じるアン。やがてグリンズミード氏の裏切りを目撃して大いに動揺し、夫人の身を案じるが時すでに遅く……。アンの態度に不審を抱いた検死官がフレンチ警部の出馬を促すこととなり、事件は新たな展開を迎える。
創元推理文庫2016年の復刊フェアの1冊です。
毎年行われているこの復刊フェア、本当に楽しみ。
クロフツは毎年入っていまして、おかげでいろいろと発見があります。昔はあまり好きではなかったのに、よく読むようになったのはまさしくこの復刊フェアのおかげ。
東京創元社には、感謝、感謝です。
創元推理文庫でお馴染みの見開きのところにあるあらすじを今回も引用してみます。上で引用したカバー裏のあらすじと違っているのでおもしろいですね。
平和な家庭には陰があった。病弱な妻、愛人のいる夫、典型的な三角関係から醸し出される不気味な雰囲気。悲劇の進行は、若い家政婦アンの目を通して語られる。――アリバイ・トリックの巨匠クロフツが、こんどは趣向を変えて、密室のトリックを創案した。一つは心理的、もう一つは物理的ともいえるトリックで、この二つが有機的に関連する殺人事件の謎に、わがフレンチ警部が挑戦する。「英仏海峡の謎」につづく怪事件!
あからさまなあらすじに思わず笑ってしまいました。
タイトルも「二つの密室」ですから、その意気込みたるや、と思うところですが、これは邦題で、原題は "Sudden Death"(突然死)。
クロフツは別に密室を売りにしようとは思っていなかったということですね。
確かに密室は二つ出てくるのですが、正直トリックは大したことないのですよ(笑)。
”機械的” トリックのほうはトリックそのものには惹かれないものの、フレンチ警部が例によって丁寧にトリックに迫っていくところをとても楽しく読みました。
こういうのフレンチ警部に似合いますね。
一方で ”心理的” と書かれているほうは、あまりにも知られ渡ったトリックで拍子抜けします。このトリックを使った作品は、日本でも今でも書かれていますね。
乱歩の「類別トリック集成」(最近では「江戸川乱歩全集 第27巻 続・幻影城」 (光文社文庫)に収録されているようです)には、クレイトン・ロースンの作例(1938年)が挙げてありますが、本書は1932年ですからクロフツのほうが早いですね。
この「二つの密室」がこのトリックの最初の作品とは思えないのですが......
このトリックは今となっては陳腐すぎて、現在の視点で見てしまうとちょっと作者がかわいそうなのですが、この作品の場合、アンという視点人物から見た事件の様相に鑑みるに、うまく演出されているなぁ、と思いました。
その意味では、この作品に登場する二つの密室は、どちらもトリックに主眼があるのではなく、それをどう料理するか、どう活かすかという点が大事だということになるように思えます。
アンの目を通したのんびりした世界観(殺人が起こるのにこの表現はどうかと思われるかもしれませんが)と、アンの行く末にハラハラ、とまでは言えないですが、アンの行く末を気にしながら読み進んでいくのが楽しい作品だったと思います。
作品の本筋ではないのですが、フレンチ警部についておやっと思ったのが2点ありました。
フレンチ警部の捜査は、いつもながらの着実なものですが、高名なホームズのセリフが引用されているので、おやっと思いました。
「ここでまたフレンチは、消去法という正規の方法を試みることにした。事件関係者全部のリストをつくって、可能性のないものを除去していく。”不可能なものを消去せよ。そして最後に残ったものが、たとえ考えられそうにないことでも、真実と考えて間違いない”
これはシャーロック・ホームズの言葉だった。そしてフレンチは、ホームズを称賛することにかけては、人後に落ちぬつもりだったが、その彼にしても、この金言には賛成しかねた。彼が不可能であるとわかっているものを消去していくと、いつもかならず、可能性のあるものがいく人も残ってしまうからであった。そこでフレンチは、いつもこういうことにきめていた。”不可能なものを消去せよ。そうすれば――なにが残るかがわかる”」(281~282ページ)
英語の原文にあたっていないので、なんとも言えないのではありますが、シャーロック・ホームズに対してこれは言いがかりに近いのでは、と苦笑しました。
また、
「この成功で、あの主席警部の椅子が欠員になったときは、同僚のだれよりもさきに自分に回ってくる……しかもマーカムはもう何年もやってきたし、あの海峡事件以来、モーチマー・エリソン卿はなにくれとなく目をかけてくれているし……」(319)
などという独白のくだりもあります。
フレンチ警部って、こういう出世を気にかけていたんだ。意外でした。
<蛇足1>
「シビルはシビルで、一生懸命つとめてきました。」(89ページ)
うーん、一生懸命ですか。
奥付を確認すると1961年が初版。
こんな昔からこの誤用ははびこっていたのですね......
<蛇足2>
「この申しいでのもう一つの面に思いおよばなかったのは、いかにもアンらしいことだった。」(92ページ)
「申しいで」と「出」がひらがなに開いてあるのですが、「いで」?と思ってしまいました。
申し出は、”もうしで” だと思い込んでいたのです。
"もうしで" とも言うのですが、そしてそちらばかりを個人的には使ってきたのですが、"もうしいで" がオリジナルのような気がしますね。
”もうしいで” を漢字で書くと「申し出で」。
<蛇足3>
「アッシュブリッジでそれを思い出させられることに出会った。」(144ページ)
ここでも立ち止まってしまいました。
正しい表現なのですが、「思い出させられる」に違和感を覚えてしまったのです。
「思い出さされる」という言い方もあるなぁ、と思いました。
「る」「らる」は難しいですよね。
<蛇足4>
「子供たちを、二、三週間どこかへつれていけとおっしゃるのよ。ブアンマスがいいだろうって」(231ページ)
ブアンマスって、どこでしょうね?
ボーンマス(Bournemouth)かな?
舞台となるフレイル荘のあるアッシュブリッジという町は架空の町のようなので、ちょっと手がかりがないですね。アッシュリッジ(Ashridge)ならあるんですけど。
<蛇足5>
「近東向け定期船オラトリオ号の船長で」(291ページ)
近東(near East)という表現を久しぶりに見た気がします。
たいてい中近東となっていることが多いですよね。
原題:Sudden Death
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1932年
訳者:宇野利泰
クロイドン発12時30分 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<カバー裏あらすじ>
九月七日十二時三十分クロイドン発フランス行き。十歳のローズ・モーリーは初めて飛行機に乗った。父と祖父、祖父の世話係が一緒だ。パリで交通事故に遭った母の許へ急ぐ旅であることも一時忘れるくらいわくわくする。あれ、お祖父ちゃんたら寝ちゃってる。―いや、祖父アンドルー・クラウザーはこときれていた。自然死ではなく、チャールズ・スウィンバーンに殺されたのである。
創元推理文庫が創刊60周年を記念して、2019年に行った名作ミステリ新訳プロジェクトの1冊です。
毎年の復刊フェアで必ず取り上げられるクロフツからは、この「クロイドン発12時30分」(創元推理文庫)が選ばれました。
「クロイドン発12時30分」といえば、「樽」 (創元推理文庫)(感想ページはこちら)と双璧をなすクロフツの傑作で、かつ、フランシス・アイルズ「殺意」 (創元推理文庫)、リチャード・ハル「伯母殺人事件」 (創元推理文庫)と並んで、倒叙ミステリの世界三大名作の一つです。
当然?旧訳も読んでいます。
読んでいるんですが、「樽」と同じように、良さをまったく理解できていませんでした。
長くて、退屈だった。それが印象でした。
例によって、まったく読めていませんね。昔の自分に猛省を促します。
しかも、倒叙ものだった、ということ以外全く覚えていませんでした。
なにより「クロイドン発12時30分」が、飛行機だなんて。列車だと思い込んでいました(笑)。
本書の解説で神命明が「倒叙ミステリとして」「警察小説として」「リアリズム・ミステリとして」「経済・企業ミステリとして」「心理スリラーとして」「法廷ミステリとして」最後にまとめて「傑作ミステリとして」と、さまざまな見方を提示されていますが、その通り、盛り沢山の名作です。
よくこれだけの長さに、盛り込めたな、と感心します。
ジャンルミックスの先駆けだったのかもしれません。
倒叙ものですから、視点人物である殺人犯チャールズの立場で物語は語られます。
チャールズの視点で一喜一憂するわけです。
ここでご留意頂いた方がよいのは、たとえばコロンボ刑事もののように、思いがけない失敗があって暴かれてしまう、というのとはちょっと違う、ということです。
捜査側であるフレンチ警部が慧眼だ、というのはその通りなのですが、ちょっとした矛盾を突いて、とかいう感じではありません。
その意味では、いつものフレンチ警部ものと同じ捜査をしているのだろうな、と思えます。
とはいえ、だからといって、本書の価値を損なうものではないでしょうし、倒叙ミステリの世界三大名作は、いずれもコロンボ刑事のような狙いは持っていません。
最近は、倒叙ものというと、ついコロンボ刑事ものを連想してしまうと思うので、あえて付言しておきます。
物語の最後で、フレンチ警部は首席警部に昇格します。
めでたし、めでたし、ですね。
<蛇足1>
「チャールズは川堤を歩いて木立を抜け、教会まで来ると、手入れの行き届いた敷地を曲がってマルへ出た。」
「マルにはチャールズ・スウィンバーンの目指す場所ーーコールドピッカビー・クラブがあった。」(いずれも41ページ)
突然出てくるマルですが、固有名詞なんでしょうか? 突然出てきて戸惑いました。
イギリスでマルといえば、バッキンガム宮殿前の通りですが、並木通りを指すこともあるようです(バッキンガム宮殿前のザ・マルは、まさに並木通りです)。また、日本でいうところの(ショッピング)モールもマルですね。
<蛇足2>
「このささやかな地所一番の華は天然の池である」(67ページ)
池と沼の違いについて、池は人工、と聞いたことがあるのですが、とすると天然の池とは??
まあ、実際には池と沼に違いはないのかもしれませんが。
<蛇足3>
「ある製造業者団体の四半期ごとの夕食会がニューカースルで行われる」(270ページ)
比較的大きな町である New Castle ですが、日本語表記は通例ニューキャッスルとアメリカ英語風に書かれているかと思います。
ここでは、イギリス正統派というか、現地発音に近い、ニューカースル、と表記されていますね。おもしろいです。
<蛇足4>
「そういえば、今までに読んだ推理小説では、どの犯罪者も完璧な計画を立てながら、ことごとく失敗に終わる。オースチン・フリーマンによる二部構成の諸作品がまさにそれだ。」(278ページ)
倒叙ミステリの先達に敬意を表しているかのようです。
<蛇足5>
本文ではなく、解説から、なので、蛇足中の蛇足ですが......
「特筆すべきは、倒叙形式を採った必然として、裁判の結果が読み手には自明だということです。有罪であることが確実な裁判の行方をこれだけサスペンスフルに描けるのですから、クロフツ作品は退屈だという一部の見方が的外れであることは自明でしょう。」(391ページ)
うーん、どうでしょうね? クロフツ作品は退屈ではないという論旨には賛同しますが、倒叙形式だから裁判で有罪になる、とは限らない気がしますが......
特に、338ページあたりの検察側の弁論は、作者は上首尾と思っているようですが、なんだか危なっかしいのですが。
原題:The 12:30 From Croydon
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1934年
訳者:霜島義明
チョールフォント荘の恐怖 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<カバー裏あらすじ>
十五歳の娘を抱え夫に先立たれたジュリアは、打算の再婚に踏み切った。愛はなくともチョールフォント荘の女主人として過ごす日々は、隣人との抜き差しならぬ恋によって一変する。折も折ジュリアの夫が殺され、家庭内の事情は警察の知るところとなった。殺害の動機または機会を持つ者は、ことごとく容疑圏外に去ったかに見えたが……。終局まで予断を許さぬフレンチ警部活躍譚。
創元推理文庫2017年の復刊フェアの1冊です。
「フレンチ警部最大の事件」 の感想で挙げた、2010年以降の創元推理文庫の復刊フェアで対象となったクロフツ作品を、今年2020年分も含めてもう一度。
2020 「ホッグズ・バックの怪事件」
2019 「クロフツ短編集 1」 &「クロフツ短編集 2」
2018 「フレンチ警部最大の事件」 (感想ページへのリンクはこちら)
2017 「チョールフォント荘の恐怖」
2016 「二つの密室」
2015 「船から消えた男」 (感想ページへのリンクはこちら)
2014 「フローテ公園の殺人」(感想ページへのリンクはこちら)
2013 「殺人者はへまをする」
2012 「製材所の秘密」 (感想ページへのリンクはこちら)
2011 「サウサンプトンの殺人」(感想ページへのリンクはこちら)
2010 「フレンチ警部とチェインの謎」 (感想ページへのリンクはこちら)
この「チョールフォント荘の恐怖」 は購入したものの日本に置いてきてしまってしばらく読めない、という状態でしたが、一時帰国の際の発掘本として読みました!
永らく手に入らなった作品が手に入って読めるようになるので、復刊というのは大変ありがたい試みでぜひ続けてもらいたいのですが、ここしばらくのクロフツの復刊作品群については、新訳を検討してもらってもよいのかな、と思いました。
なんといっても、訳文が古い。
奥付をみると、初版は1977年。ざっと40年前ですか。読んでみると、40年以上の古さに感じられる翻訳です。
個人的には、二人称の選択がなんとも時代を感じるというか、違和感を抱きました。
恋人同士の男が女に向かって「あんた」。言わないですよね。
また、母親が娘に向かって「あんた」ということはシチュエーションや設定次第ではありうると思うのですが、本書の使われ方はちょっとなじめませんでした。
これ以外も古いんですよね、全体的に。
「サンマー・ハウス」って、最初なんのことかわかりませんでした。Summer House。今だと、サマーと表記しますね。
といいつつ、古いということはある意味趣きがあるということでもありますね。
たとえば
「かれらの話が傍え聴きされる惧れはまったくなかった。」(297ページ)
というところでは、思わずニヤリ。
長岡弘樹の「傍聞き」 (双葉文庫)(感想はこちら)を連想しましたので。
創元推理文庫でよくあることですが、見開きのところにあるあとがきが、上で引用したカバー裏のあらすじと違っていますので、そちらも引用します。
法律事務所を経営しているリチャード・エルトンは、郊外の見晴らしのよい高台に堂々たる邸宅を構えていた。ある晩、そのチョールフォント荘でのダンス・パーティ開催の直前、彼が後頭部を割られて死んでいるのが庭園で発見される。犯人は誰か? 動機は遺産相続か、怨恨か、三角関係のもつれか。それぞれの動機にあてはまる容疑者は、フレンチ警部の捜査の結果つぎつぎとシロとなってゆく。クロフツが、完全犯罪をめぐる本格推理小説の醍醐味を伝える重厚な謎解き編
内容ですが、しっかり構築された本格ものだな、と思いました。
カバー裏あらすじに「終局まで予断を許さぬ」とありますが、まさにその通り。
見開きのあらすじにある通り、容疑者がつぎつぎとシロになっていく展開に夢中になりました。
真相にたどり着くのが、最終章の一歩手前。
クロフツというと、延々と続くアリバイ崩し、というイメージの方も多いのではと思いますが、そうでない作品も数多く発表していますし、この「チョールフォント荘の恐怖」 はアリバイ崩しではないほうの代表例といってもよいのではないでしょうか?
おもしろかったのは、フレンチ警部が、若手警官(といっても肩書は部長刑事になっています)ロロの指導役をつとめること。
フレンチの捜査はいつも丁寧なんですが、指導役をつとめるからか、いつもよりも丁寧に捜査しているみたい。
このロロという部長刑事のキャラクターもなかなかよさそうなので、レギュラー登場人物にすればよかったのに、と思ったりもしました。まあ、このあと昇進してしまって、独り立ちしたということでしょうね。
タイトルは「チョールフォント荘の恐怖」 ですが、原題は”Fear Comes to Chalfont”。
日本語タイトルのイメージだと、チョールフォント荘で恐怖の連続、恐ろしい事件がいっぱい起こる、あるいは、なにかとても恐ろしいもの/ことがチョールフォント荘にある、という感じですが、違います。
事件をきっかけに、チョールフォント荘の人々が不安に陥ってしまうことを指しています。
スリラー、サスペンスを期待すると肩透かしになります。
小味な謎解きミステリの佳品だと思いました。
<蛇足>
「恋と戦争と探偵の仕事では何をしようとフェアなんだから」(245ページ)
フレンチ警部のセリフです。
そうなんだ......でも、なんとなくわかるような気がします。
ほかならぬフレンチ警部のセリフだというのが少々意外ではありましたが。若手の指導役をつとめているからでしょうか??
原題:Fear Comes to Chalfont
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1942年
訳者:田中西二郎
フレンチ警部最大の事件 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<裏表紙あらすじ>
宝石商の支配人が殺害され金庫からダイヤモンドと紙幣が消えた。事件当夜、支配人は職場を離れて舞い戻った形跡があり、状況証拠はことごとく彼に不利だが決め手はない。加えてアムステルダム支店の外交員が消息を絶っていると判明、ロンドン警視庁の捜査官を翻弄する。スイス、スペイン、フランス、ポルトガル……真相を求めて欧州を駆ける、記念すべきフレンチ警部初登場作品。
創元推理文庫2018年の復刊フェアの1冊です。
クロフツの作品を読むのは、「フローテ公園の殺人」 (創元推理文庫)(ブログの感想ページへのリンクはこちら)以来2年ぶり。
なんだか意外です。
クリスティ、クイーン、カーと違って、クロフツはもともと未読作品が多い一方で創元推理文庫からは順調に毎年復刊フェアで手に入りやすくなっていることもあって、最近はクロフツをよく読むようになってきているのに2年も読んでいなかったのか......
ちょっと気になったので、2010年以降の創元推理文庫の復刊フェアで対象となったクロフツ作品を調べてみました。
2019 「クロフツ短編集 1」 &「クロフツ短編集 2」
2018 「フレンチ警部最大の事件」
2017 「チョールフォント荘の恐怖」
2016 「二つの密室」
2015 「船から消えた男」 (ブログの感想ページへのリンクはこちら)
2014 「フローテ公園の殺人」(ブログの感想ページへのリンクはこちら)
2013 「殺人者はへまをする」
2012 「製材所の秘密」 (ブログの感想ページへのリンクはこちら)
2011 「サウサンプトンの殺人」(ブログの感想ページへのリンクはこちら)
2010 「フレンチ警部とチェインの謎」 (ブログの感想ページへのリンクはこちら)
うち、「殺人者はへまをする」は、なんとなく手を出しそびれているうちに、ふたたび品切れ状態に、「二つの密室」 は読んだけれども感想を書けずじまい、「チョールフォント荘の恐怖」 は購入したものの日本に置いてきてしまってしばらく読めない、という状態です。
また、復刊フェア以外でも創元推理文庫は復刊をやってくれていますね。
たとえば「フレンチ警視最初の事件」(ブログの感想ページへのリンクはこちら)などはそうですね。
さて、「フレンチ警部最大の事件」 です。
本作品は記念すべき、フレンチ警部初登場作品です。
初登場にして、タイトルが「最大の事件」
クロフツ、かなり気負って書いたのかもしれませんね。
で、事件の内容が、フレンチ警部「最大」というのにふさわしい難解なもの、規模の大きいものだったかというと......そこまでのものには感じられなかったのですが、この事件で特徴的なのはフレンチ警部があちこち駆け巡ることですね。
その意味ではフレンチ警部の活動領域は非常に広範囲で、引用したあらすじにもスイス、スペイン、フランス、ポルトガルとありますが、ほかにもオランダ(アムステルダム)にも行ってしますし、イギリス国内でも、ロンドンだけではなくレディング、サザンプトンにも出張っています。
「フレンチ警部のように、プリマスやニュー・カスルへちょっと足をのばすくらいを大旅行だと思っている出不精な人間には」(94ページ)ある意味 "great" といってもよい事件かも、という気がしました。
この点に関して驚くのは、フレンチ警部の上司がいつもやすやすと出張を承認すること。承認するどころか、渋るフレンチを捜査進展の見込みが薄くてもシャモニーに行けとけしかけるくらいです。(84ページ~)
あと、物語の焦点がそこにないからだと思いますが、フレンチ目線でのコメントはなされるものの、それぞれの土地についての描写はあっさりしていて、少々もったいないですね。
フレンチ警部であれっと思ったことが......
フレンチ警部は、事件の捜査がまったく行きづまったと感じたときは、いつでもその事件の諸状況をあますところなく細君に話して聞かせることにしていた。(116ページ)
フレンチ夫人がアイデアをいう、というシーンがあるのですが(二度も!)、そういう設定だったんですね。後の作品ではあまりそういうシーンに記憶がないのですが。
事件は、最大かどうかはともかくとして、あれこれ細かいアイデアが盛り込まれているように思いました。
「本格小説をかりに“謎をとく”小説だと定義すれば、クロフツのフレンチものはその範疇には入らない。それは、“謎がとける”小説なのである。」と訳者あとがきに書かれていますが、この言説自体には賛成できないものの(フレンチ警部などクロフツの小説の探偵役は、地道な捜査が売りながら、ポンっと飛躍したひらめきをちょくちょく見せるからです)、それらのアイデアが数珠つなぎで解かれていきますので、この「フレンチ警部最大の事件」 に限っては、“謎がとける”と言ってしまってよいように思える仕上がりになっています。
最初はこういう感じでフレンチ警部の設定をしていたのかな? と興味がわきました。
細かなアイデアがそれなりに気が利いていて、楽しく読めました!
<蛇足1>
被害者の近親者側は法的にだれも検屍に立ち会わなかった。(54ページ)
ここの検屍は検屍審問を指すのだとは思いますが、「法的に」というのが謎ですね。
<蛇足2>
こういう神秘的な矛盾もすべてつじつまがあい(55ページ)
検屍審問のあとフレンチが事件について考察をめぐらすシーンに出てくる表現ですが、「神秘的」というのは不思議な表現ですね。神秘的、ではないでしょう。
原語は mysterious なのかな?
<蛇足3>
スホーフスという人物を見たかぎりでは、夫子(ふうし)自身がいまになってようやくこれは大変な陰謀だと気づいたらしいこの事件に、よもや加担しているというようなことはあるまいと警部は思ったが(74ページ)
恥ずかしながら、夫子がわからず、調べてしまいました。
「あなた、彼などと、その当人を指す語。」ということなので、今風にいえば、彼自身が、というところでしょうか。
原題:Inspector French's Greatest Case
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1925年
訳者:田中西二郎
フローテ公園の殺人 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<裏表紙あらすじ>
当初鉄道事故と思われたアルバート・スミスの死は、委曲を尽くす捜査によって悪質な計画殺人の事相を呈し始めた。しかしファンダム警部も全容解明に至らず、舞台は南アフリカから一転スコットランドへ。消息を絶った婚約者に寄せるマリオンの真情ゆえか、事態は新たな局面を迎える。当地で捜査に当たるロス警部は、南アの事件と共通する特徴から同一犯の可能性を考慮するが……。
先日、カーの「髑髏城」 (創元推理文庫)の感想を書きましたので(ページへのリンクはこちら)、クロフツの感想も書いておこうと思いまして、2015年10月に読んだ「フローテ公園の殺人」 (創元推理文庫)を引っ張り出しました。
2014年の復刊フェアの1冊です。
↑の あらすじ、おもしろいですね。
突然出てくるマリオンって誰? 婚約者って? と思ってしまいます。
南アフリカでの事件で犯人と目され裁判にかれられたスチュアート・クローリイの婚約者であるマリオン・ホープですね。
はい、クラシックなロマンス(!) が出てきます。いいぞ、クロフツ。
創元推理文庫恒例で扉のあらすじも引用します。
南アフリカ連邦の鉄道トンネル内部で発見された男の死体。それは一見、何の奇もない事故死のようだったが、ファンダム警部の緻密な捜査により、事件は一転して凶悪犯罪の様相を帯びる。しかし、警部はそのとき自分が悪質なトリックを弄する犯人を相手にしているとは気づかなかった。やがて舞台は南アフリカからスコットランドへ移り、ロス警部が引き継いで犯人を追う。フレンチ警部の前身ともいうべき両警部の活躍を描く、クロフツ初期の代表作!
こちらの方が普通のあらすじですね。
ただ、こちらも少々問題がありまして、スコットランドでロス警部が引き継ぐ、とありますが、引き継いだわけではなく、南アフリカの事件、スコットランドの事件は別々に捜査されます。あとで結びつくというわけですので、不正確なあらすじになっていますね。
事件の構図は、南アフリカで事件が起き、その後2年以上経ってからスコットランドで事件関係者の間で新しい事件が起きる、というかたちです。
目次でも、第一部 南アフリカ、第二部 スコットランドとなっています。
したがって、読者にはつながりが簡単に見て取れることでも、それぞれの地で捜査するファンダム警部とロス警部にはつながりがわかりません。
真相がわかってからロス警部が振り返って、
「両者が非常に似通っていることに気がついたのです」
「同じように砂袋による凶行であるだけでなく、どちらの場合も奇禍に見せかけていますし、疑惑が生じた場合に備えて身代わりの犠牲者も用意しています」(362ページ)
と述べていますが、本当にそっくりです。
クロフツの特徴である地道な捜査が描かれますので、南アフリカ、スコットランド2地点で相似形の捜査が繰り返されてしまいます。
この繰り返し部分をどう考えるかでこの作品の評価は分かれると思います。
訳者もあとがきで
「けれども、なんといってもクロフツの特徴はその作品の現実性であろう。そして、その特徴が一番よく出ているのは『フローテ公園の殺人』であろう(その代わりに退屈な部分もある)。」
と述べているのは、このあたりを踏まえてのことかもしれません。
スコットランドの捜査が進むにつれて読者の眼にも事件の類似性がしっかりと浮かび上がってくる、というように組み立てられていたら、印象は変わったのではないかと感じます。
あとやっぱり、アリバイトリックがしょぼい...これはミステリとしては致命的かもしれませんねぇ。
それと、最後に意外な犯人の演出がなされていて好印象なんですが、うーん、どうでしょうか。現在のような科学的捜査はできなかったにしても、南アフリカの事件の段階できちんと捜査していればもっともっと早く警察は真相に到達できたんじゃなかったかな、と思えるのはいただけません。
とミステリ部分にケチをつけたものの、上でロマンスに触れましたが、クローリイとマリオンをはじめとする登場人物たちはお気に入りです。
のちの作品群ではクロフツ警部に統一される探偵役(ここではファンダム警部とロス警部)のキャラクターもいい人そうだし。
あまり喧伝されていませんが、ここもクロフツの魅力だと思いますし、それはこの「フローテ公園の殺人」でも十分に発揮されています。
<蛇足1>
この訳書、結構日本語がおもしろです。
「ぶっつかった」(13ページ)
「でっくわしています」(58ページ)、「でっくわした」(241ページ)、「でっくわそう」(277ページ)
今の感覚だと不要な撥音がかわいいです。
ちなみにこの本の初版は1975年9月。こういう発音、表記したんでしょうか?
<蛇足2>
「その手紙はクローリイの家の郵便箱に夕方までとどまっていて」(241ページ)というところがあります。
この手紙というのは「クローリイがマリオン・ホープ宛に転送した、サンディ・バカンの署名のある手紙」で、先ほど引用した部分のあとは、「結局、ヒル農場の雇人の一人が、投函するつもりで持って行った」と続きます。
郵便箱ってなんでしょうね?
文章から判断して、転送しようと思う手紙をそのままにしておくとは思えませんので、郵便受けとは違うように思えるんですが...
<蛇足3>
地図の記載をめぐって
「その赤い線が切れ目なしにひいてあった。たしかにその描き方は橋があることを暗示していて、渡し舟を示すような訂正はどこにもなかった」(276ページ)
と書いておいて、すぐ後に
「こんな地図じゃ、誰だって間違いまさあね。橋があるとはっきり描いてあるんだから」
というせりふが続きます。
「暗示」だと「はっきり描いてある」とはいえないんじゃないかと思うんですが...
「はっきり描いてある」というのは地の分ではなくて登場人物のせりふなので、誤りだと強くいうことはできないとは思いますが、不用意な書き方かなぁ、と思います。
原題:The Groote Park Murder
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1923年
訳者:橋本福夫
タグ:F・W・クロフツ
船から消えた男 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<裏表紙あらすじ>
やむを得ず長い婚約期間を過ごしているジャックとパムの許に、桁外れの儲け話が舞い込んだ。懸案の経済問題が解決し憧れの結婚生活は目前--と思われたそのとき運命は暗転する。失意のどん底でパムは一縷の望みを見出し、海を渡ってロンドンへ。フレンチ主席警部に会おう。管轄外の事件ながら、捜査に関わり、公正で親切そうだったあの人なら助けてくれるんじゃないかしら……。
2015年の復刊フェアの1冊です。
引用しておいてなんですが、↑ あらすじとは思えませんね...
ここに書かれているパムの行動は、物語もかなり後半になってからのものですから。
創元推理文庫恒例で扉のあらすじも引用します。
北アイルランドの小さな町で平穏な毎日を送っていたパミラと婚約者ジャックはある化学上の発見の実用化計画に参加することになった。発見とは、ガソリンの引火性をなくし危険性のない燃料にできるというものだった。実用化されれば彼らが巨万の富を得るのは間違いない。計画が進み、ロンドンのある化学会社との契約成立も間近というとき、その化学会社の社員が失踪した。ロンドンへ向かう船から姿を消したのだ。数日後、彼は水死体となって発見された。ベルファスト警察からの要請で捜査に乗り出すフレンチ警部。事態は意外な展開を見せ……。
こちらの方がストーリーがわかりますね。
ここに書かれているようなガソリンを安定化させる技術、実現したら確かにさぞかしお金になることでしょう。
パムが喜ぶのもわかる。
この作品の特徴は、このようにパムの視点のパートが結構多いということでしょう。
逆にいうと、フレンチ警部の視点のパートの方が少ない。ほかにも2名視点となる人物がいまして、合計4名の視点でつづられます。
この視点の切り替えがなかなか物語としては効果的だったと思います。
パムの視点が多いので、本格ミステリのごりごりした感じがやわらいでいるのもポイントですね。
法廷シーンもあるのですが、パムの視点で描かれるので、結構はらはらします。
犯人をつきとめる手がかりであったり、船を舞台にしたトリックだったりは、お世辞にもうまくいっているとはいえない出来栄えですが、結構どぎつい事件をあっさりと読ませてしまう作品に仕立てている点、クロフツもうまいもんだなぁ、と感心しました。
ただ、ストーリー展開の核となった、ガソリンを巡る技術、ちょっと軽く扱いすぎですよ、クロフツさん。ものすごい注目を集めちゃうテーマなんだから、もう少し気を配ってもらえれば...
<蛇足1>
被害者が会社に打っている電報が、真相を知ってから考えるとちょっと???です。
こんな電報、打たないでしょ...
<蛇足2>
原題、Man Overboard! って、船から「人が落ちたぞ~」という言葉なんですが、そういうシーン、本書にありません...
原題:Man Overboard!
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1936年
訳者:中山善之
タグ:F・W・クロフツ
樽 [海外の作家 F・W・クロフツ]
<裏表紙あらすじ>
パリ発ロンドン行き、彫像在中――荷揚げ中に破損した樽に疑惑を抱いた海運会社の社員がバーンリー警部を伴って船に戻ると、樽は忽然と消えていた。紆余曲折を経て回収された樽から出てきたのは女性の遺体。何らかの事実が判明するたび謎が深まり、ドーヴァー海峡を往き来した樽は英仏の警察官、弁護士、そして私立探偵を翻弄する。永遠の光輝を放つ奇蹟の探偵小説、新訳成る。
今さらながら、この新訳版の「樽」 (創元推理文庫)から2月に読んだ本の感想となります。
子どもの頃読んだきりで、新訳をきっかけとした読み直しでしたが、ずいぶん昔に読んだなぁ、というところ。
以前読んだものは講談社文庫版。訳者は三浦朱門(!) でした。かなり分厚い本だった記憶が。
そのときの印象は、正直ぱっとしませんでした。古典だ、名作だと言われているので、ミステリ好きである以上、教養として(?) 読みましたが、正直退屈でしたね。
今回の新訳は、なんだか薄くなったみたいな。分厚い本が増えて、「樽」 の長さが目立たなくなっただけかもしれませんが。
で、中身。
今回、少々身構えて読んだわけですが、退屈しませんでした。むしろ、楽しんで読めました。
創元推理文庫恒例で扉のあらすじも引用します。
埠頭で荷揚げ中に落下事故が起こり、珍しい形状の異様に重い樽が破損した。樽はパリ発ロンドン行き、中身は「彫像」である。こぼれたおが屑に交じって金貨が数枚見つかったので割れ目を拡げたところ、とんでもないものが入っていた。荷の受取人と海運会社間の駆け引きを経て樽はスコットランドヤードの手に渡り、中から若い女性の絞殺死体が……。次々に判明する事実は謎に満ち、事件はめまぐるしい展開を見せつつ混迷の度を増していく。真相究明の担い手もまた英仏警察官から弁護士、私立探偵に移り緊迫の終局へ向かう。クロフツ渾身の処女作にして探偵小説史にその名を刻んだ大傑作。
こちらのあらすじ、なんだかわくわくしますね。
冒頭ちょっと活劇っぽいのも意外。こういうオープニングでしたか。樽が英仏海峡を挟んでいったりきたりして複雑だ、というふれこみですが、この程度だと、ちっとも複雑とは言えないですね。
もっともかねてより指摘されているミス(解説に書かれています)のおかげで、わかりにくくなっているのは事実ですが、むしろシンプルなトリックのように見受けられます。
それを複雑なものと感じさせるところに、クロフツの腕の冴えがあるのではないか、と思いました。
天才型の名探偵が、ひらめき一つで犯人を追いつめていくのではなく、凡人型の探偵が登場するのがクロフツの作品とも言われますが、地道な捜査をすることはしますが、ちゃんとひらめきは見せるんですよね。だから、凡人型というのはあまり正しい表現ではなく、現実的な地に足のついた捜査をする名探偵というべきかもしれません。
この「樽」 では、扉のあらすじにもある通り探偵がリレー形式でバトンタッチしていく構成を取っています。
これはこれで昔不満を抱いたところですが(やはり子供心に、神のごとき名探偵に憧れを抱いていたわけです)、現実的ということを考えると、「樽」 の場合、一人の名探偵に推理させるよりもふさわしいものだと感じました。国を跨いだ捜査をする大事件、この方が似つかわしい。スコットランドヤードもちゃんとパリ警視庁に捜査協力依頼をします。
そして複数の探偵が関与していることがまた、事件を複雑に見せるのに一役買っているのが素晴らしい。
あとこの本、解説を有栖川有栖が書いていまして、これが素敵で楽しい。
ミスにもきちんと触れられています。
個人的には、指摘されているミスに加えて、電話を巡るエピソードも気になりました。
たとえば246ページに、カフェで電話をかけたことは確認は容易で、かつ、実際に電話をかけたかどうかは相手を調べればわかる、というような部分があるのですが、ほかにいくらでも考え方は成立するように思われる(電話をかけたことは事実でも、どこからかけたかをはっきりさせるのは難しいと思います)ので、ちょっと真偽をつきとめる考え方としては不十分かなぁ、と。
それにしても、退屈と思っていた「樽」 をここまで楽しめるとは、収穫でした。
新訳、ありがとう。
原題:The Cask
作者:Freeman Wills Crofts
刊行:1920年
訳者:霜島義明
タグ:F・W・クロフツ