読者よ欺かるるなかれ [海外の作家 カーター・ディクスン]
<裏表紙あらすじ>
すさまじい、けだものの叫びに似た悲鳴だった。聞いているほうが、思わず耳をふさいで、自分でも叫びだしたくなるような悲鳴……。法医学者サーンダーズは急いでホールに面したドアをあけた。そこには、この邸の主人サム・コンスタブルの姿があった。階段を一歩降りかけたまま、手すりに身体をあずけ、宙に伸ばした片手の指先がひくひく痙攣している。やがて、どっと崩折れるように倒れ込んだ。サーンダーズが駆けよる前に、息はなかった。それを待っていたように、時計が八時を告げた。読心術者ハーマン・ペニイクの予言は、見事適中したのである!
サムと、妻の探偵小説作家マイナが開いたパーティには一つの趣向があった。読心術者ペニイクを招いて、彼の能力を見定めてやろうというのだ。それが、サムは八時の晩餐のまえに死ぬというペニイクの予言を引き出し、まさに予言どおりの結果となってしまったのだ。しかも捜査を始めたマスターズ警部の前で、ペニイクはサムを殺したのは自分の思念波であると宣言した。前代未聞の不可解な事件に、警部が名探偵ヘンリー・メリヴェール卿の出馬を仰いだ矢先、またしても予言殺人が……!
カー独得の怪奇趣味が、本格推理の謎と見事に融合した傑作といえる。警告――各所にあたえられた読者への指針に留意あって、読者よ欺かるるなかれ!
2022年6月に読んだ最初の本です。
上の書影は文庫本のものですが、実際に手に取ったのはポケミスです。amazon でポケミスの書影は見つからなかったので。なのであらすじもポケミスのものです。
非常に高名な作品で、ずっと読みたいと思っていたものです。
文庫にならないなぁ、としびれをきらしてポケミスを買って積読にしているうちになんと文庫化されてしまいました......
まず、タイトルがいいですよね。
「読者よ欺かるるなかれ」
原題を直訳すると、「読者は警告される」(あるいは能動的に訳して「読者に警告する」)
これを「読者よ欺かるるなかれ」と訳したのは訳者のお手柄ですよね。雰囲気、抜群。
これは、小説の折々に挟まれる、記述者(と思われる)サーンダーズ博士から読者への注に由来します。
たとえば76ページ下段では
「サム・コンスタブルを殺害した方法は、犯人がわざと現場から身を遠去けて、何等かの機械的手段を利用して殺害したものと考えるのは非常な誤解である」
などと書かれ、これらの注は
「一言読者に警告を与える。」
と結ばれます。
この警告文が非常に効果的でして、こういう一種のメタ的な手法は、ある意味反則技ではあるのですが叙述トリック花盛りの昨今から考えると、何ら問題ないと言えそうです。
数え落としがなければ、三ヶ所あります。
あとの二つのポイントは
「本事件は、犯人の単独行動であって、その殺人計画を知っていたり、またはこれに手を貸したりした人物はひとりもいない」(131ページ下段)
「この事件における殺人動機は、もちろん、物語のうちにあますところなく述べられているが、疎漏の読者の見逃していることを恐れる。」(185ページ下段)
ただ、肝心の事件の方がちょっと弱い。
思念放射(テレフォース)などという魅力的な謎で引っ張って、まさに幽霊の正体見たりなんとやらという感じです。
加えて、文献まで提示して補強しているものの、「さすがにこれはなしだろう、アウトですよ、カーさん」と言いたくなるような事象まであります。
カーらしさを逆手にとったような部分もあり、とても楽しく読めて満足しましたが、傑作としてお勧めするのは躊躇してしまいますね。
<蛇足1>
「母屋につづく拱路(アーチウェイ)のむこうから、いそいで近づいてくる足音が聞えた。」(36ページ上段)
拱路は、以前「奇商クラブ」(創元推理文庫)(感想ページはこちら)の感想で触れた「拱道」の類語ですね。
<蛇足2>
「遠慮なく言わせてもらえば、あれば失敗作だからね。犯人が死骸を荷車に載せて、ロンドン中を曳きまわし、揚句のはてに、ハイド公園(パーク)で死んだように見せかけるなんて、こいつばかりは、全然頂けないな。」(37ページ下段)
あれ? カーに似たような作品ありませんでしたっけ?(笑)
<蛇足3>
「あれでしたら、拝見させて頂きました。」(38ページ上段)
奥付によるとポケミスの初版は1958年。その頃から「拝見させて頂」くという二重に間違った敬語が広まっていたのですね。
<蛇足4>
「正直いって、お料理って、ずいぶん変なお仕事だわね。初めてやってみたけど、あたし、すっかり疲れてしまったわ。(略)」
「(略)お料理なんて、時間と労力が無駄で、自分でやることはないわ。」(107ページ下段)
なかなか大胆な会話だと思いました。
こういう意識も、イギリスの料理はまずいことの遠因かもしれませんね。
<蛇足5>
「ほんとうに、心からあなたさまを崇拝しておりますの。お扱いになった事件は、残らず承知しております。三〇年のダーワース事件、三一年のクリスマスの映画スター事件、マントリング卿の密室事件。全部覚えておりますわ。」(114ページ下段)
登場人物の一人がH・M卿にいうセリフですが、ここに列挙されている事件、いわゆる「描かれなかった事件」なんでしょうか?
<蛇足6>
「ではあなたは、ペニイクが御良人を、例の神秘的手段で殺害したと主張されるんですね?」(115ページ上段)
「良人」は「おっと」と読むと思っていたので、「御良人」だとなんと読むのだろう?と思ってしまいました。
そのまま「りょうじん」という読み方もあるのですね。しかし「ごりょうじん」と言って伝わるのでしょうか?
<蛇足7>
「マイナのこころは、ふたたび穀のなかにこもってしまったらしく」(116ページ下段)
穀は殻の間違いでしょうね。
「最上階にある庁内食道で、マスターズ警部とH・Mと三人でひるの食事をとりながら打合せわをするためだった。」(143ページ下段)
ここの食道も食堂ですね。
<蛇足8>
「こんな話がある。エジプトの古墳発掘団にまつわる怪事件で、団員が順々に、ファラオの呪で仆れていくってのですよ。事実は、一酸化炭素を巧妙に使ってるんです。」(130ページ上段)
ニヤリとしてしまいますね。
<蛇足9>
「どうして奥さんは、モルヒネを飲んだっていうのに、そうやって、起きていられるのです?」(136ページ上段)
ミステリをかなり読んでいるというのに、モルヒネの副作用として眠気があるという事実をしっかりと認識していませんでした。単なる鎮痛効果のみかと思っていました。
<蛇足10>
229ページ上段「ロンドン地区では」以下で語られる内容は、二度のロンドン暮らしでもその通りで、いまでもその規制は続いているんですよね。
イギリスにウォシュレットがない理由のうちの一つです。
原題:The Reader is Warned
著者:Carter Dickson
刊行:1939年
訳者:宇野利泰
殺人者と恐喝者 [海外の作家 カーター・ディクスン]
<カバー裏あらすじ>
余の出生は一八七一年二月六日、サセックス州――ヘンリ・メリヴェール卿の口述が始まった。心打たれる瞬間である。しかしその折も折、変事が突発した近傍のフェイン邸へ出馬を要請する電話が入った。家の主人が刺されて亡くなり、手を下した人間は判っているが状況は不可能を極めているという斗柄もない事件である。秘書を従え捜査の合間も口述を進めるH・Mの推理は如何に。
2021年10月に読んだ8冊目の本です。
この作品、原書房から森英俊訳で出ていた単行本「殺人者と恐喝者」 (ヴィンテージ・ミステリ・シリーズ)で読んでいます。新訳なって再読です。
H・M卿の自伝の口述筆記とかいうおふざけ(失礼)で度肝抜かれますが、そんなの売れるんですかね(これまた失礼)?
筆記者であるフィリップ・コートニーが途中で、「誹謗や醜聞、それに悪趣味な箇所を除くと、出版できそうなのは全体のおよそ五分の一」(178ページ)なんて考えてしまうくらいですからね。
(まあ、H・M卿ご自身によって見事に脚色された自伝を読まずとも、ディクスン・カーのおかげでかなりいろいろと楽しませてもらっていますが)
さて、ミステリとしては、実は以前読んだ時、あまりいい印象を抱いていませんでした。
本物とすり替えられたゴムの短剣により、催眠術の実験中に人が殺されてしまうが、すり替えるチャンスのあったものがいない、という事件を扱っているのですが、このトリックに使われる小道具があまりにも....というものだったからです。
いや、これはもうバカミスの領域ですよ。
こういうのでも作品に仕立ててしまうカー(カーター・ディクスン)はすごいのですが、さすがにこれはちょっとねぇ、と。
今回再読してみて、このトリックには相変わらずずっこけてしまうことを確認しましたが(笑)、この作品はこれによりかかった作品ではなく、ちゃんと読みどころを押さえられていなかったことに気づきました。
カーは不可能犯罪に強い作家ですが、それと同時に犯人の隠し方が非常にうまい作家でして、この作品でもその手腕は遺憾なく発揮されています。そこがポイント!
いろんな隠し方をカーは編み出してきているのですが、この「殺人者と恐喝者」 ではクリスティを彷彿とさせると言ったら両方のファンから叱られるかもしれません。でも、本当にクリスティを連想したのです。
破壊的なトリックに気を取られすぎて、この勘所に反応しなかったとは、ミステリ読みとしてまだまだ未熟だなと反省しました。
それにしてもマスターズ警部は、
「卿が首を突っ込んだ事件に限っては、私はローマ法王だろうがカンタベリー大司教だろうが、誰ひとり除外するつもりはありません。この人物が犯人であるはずはないと考えると、いつだってそいつが犯人だった、となるんですからな。」(194ページ)
なんてセリフが出てくるなんて、かなりこなれてきましたね。
<蛇足1>
引用したカバー裏あらすじに出てくる「斗柄もない」、初見でした。
調べてみると、斗柄でない、と使うこともあるようですね。
軽率なこと。途方もないこと。のようです。
原題:Seeing is Believing
著者:Carter Dickson
刊行:1941年
訳者:高沢治
白い僧院の殺人 [海外の作家 カーター・ディクスン]
<カバー裏あらすじ>
渡英した女優マーシャ・テイトをめぐり、契約が残っていると連れ戻しに来たハリウッドの関係者、ロンドンでマーシャ主演の芝居を企画するブーン兄弟、芝居ばかりか私生活の後援もしかねない新聞社主らが不穏な空気を醸し出す。その不穏さを実証するように、スチュアート朝の雰囲気に浸るべく訪れたブーン家所有の屋敷〈白い僧院〉の別館で、マーシャは無惨な骸と化していた……。
足跡のない殺人の代表的な傑作が、新訳で登場しました(といっても、例によって積読してしまって、新訳が出たのは2019年6月ですが)。
当然(?)、旧訳で読んでいます。
初めて読んだとき、謎解きのあまりの鮮やかさにびっくりした記憶があります。
その後さまざまな作家が足跡のない殺人を書いていますし、この「白い僧院の殺人」 (創元推理文庫)を応用した作品も多いですから、ひょっとしたら今読むとトリックに見当がつきやすくなっているかもしれませんが、カーが技巧を凝らしているので、まだまだこの傑作は色褪せない、どころか、まずまず光を放っているのではないでしょうか。
H・M卿がさらっとポイントを明らかにするシーンで、ぜひびっくりしていただきたいと思います。
帯に「“雪の密室”の最高峰 ここにあり!」
とありますが、まったくその通りだと思います。
足跡のない殺人、あるいは雪の密室、いいですよね。
「密室だけなら鼻歌交じりでやっていけるがな。ドアに外側から鍵を掛ける細工の一つや二つ、誰でも心得とる。針と糸のちょっとした仕掛けで差し錠を飛び出させることができるし、鍵穴の軸はペンチで回せる。蝶番を外せば錠には手もつけずにドアを開け閉めできる。だが、差し渡し百フィートに何の跡もない深さ半インチの雪で囲まれた密室という、単純かつ明瞭、呆れ返った問題ときては……」(198ページ)
とH・M卿が言っている通り、ステキな謎です。
細部は忘れてしまっているので、再読でも十二分に楽しめましたし、中心となる足跡トリックの切れ味には、やはり、ほれぼれとしてしまいます。
ぜひ!
<蛇足1>
「カーテンは引かれておらず、ベネチアンブラインドも上がったままだ。」(58ページ)
以前、「小鬼の市」 (創元推理文庫)(感想ページはこちら)で、ベネシャン・ブラインドという訳が使われていたので、注目してしまいました。
<蛇足2>
朝顔口の窓(66ページ)というのが模式図つきで(67ページ)で出てきます。
お城や教会などで見られるものですね。朝顔口っていうんですね。
なんとなく男子トイレの便器を連想してしまって、笑えてしまいました。
<蛇足3>
「二分以内に着替えてご用を伺うのが、規則と申しますかモーリスさまのお決めになったことでーー」(160ページ)
二分で着替えもするというのは無理な気がしますね。
フランス語で「ちょっと」というときに deux minutes (二分)と言ったりするので、その連想でしょうか?
原題:The White Priory Murder
著者:Carter Dickson
刊行:1934年
訳者:高沢治
ユダの窓 [海外の作家 カーター・ディクスン]
<裏表紙あらすじ>
被告人のアンズウェルを弁護するためヘンリ・メリヴェール卿は久方ぶりの法廷に立つ。敗色濃厚と目されている上、腕は錆びついているだろうし、お家芸の暴言や尊大な態度が出て顰蹙を買いはしまいかと、傍聴する私は気が気でない、裁判を仕切るボドキン判事も国王側弁護人サー・ウォルターも噂の切れ者。卿は被告人の無実を確信しているようだが、下馬評を覆す秘策があるのか?
この作品は以前にハヤカワ・ミステリ文庫版で読んでいます。
2015年7月に創元推理文庫から新訳版が出たので即購入していましたが、ようやく読みました。
しかしまあ、有名なユダの窓をめぐるトリックを除いて、見事に忘れていますね。
ほぼまっさらな気持ちで、この名作を楽しむことができました。
それにしても、写真のエピソードにはびっくりしてしまいました。こんなものを忘れてしまっているとは!
創元推理文庫の常として、表紙扉部分のあらすじを引用します。
一月四日の夕刻、ジェームズ・アンズウェルは結婚の許しを乞うため恋人メアリの父親エイヴォリー・ヒュームを訪ね、書斎に通された。話の途中で気を失ったアンズウェルが目を覚ましたとき、密室内にいたのは胸に矢を突き立てられて事切れたヒュームと自分だけだった??。殺人の被疑者となったアンズウェルは中央刑事裁判所で裁かれることとなり、ヘンリ・メリヴェール卿が弁護に当たる。被告人の立場は圧倒的に不利、十数年ぶりの法廷に立つH・M卿に勝算はあるのか。法廷ものとして謎解きとして、間然するところのない本格ミステリの絶品。
こっちのほうが断然わかりやすい!
「ユダの窓」ですが、本来は監獄の「独房のドアに付いている四角い覗き窓のこと」(332ページ)と説明がありますが、「ユダの窓」トリックがあまりに強烈なので、まったく忘れていました。
実は95ページに「ジム・アンズウェルが刑務所で何よりいやなのはユダの窓なんですって」と説明なしに出てくるんですね。ここでひっかかって調べるべきだったか...でも、インターネットで調べようとしても、このカーの作品ばかり出てきちゃうんですよね...
「あの部屋が普通の部屋と違っているわけではない。家に帰って見てみるんじゃな。ユダの窓はお前さんの部屋にもある。この部屋にもあるし、中央刑事裁判所(オールドベイリー)の法廷にも必ずある。ただし、気づく者はほとんどおらん」(96ページ)
って、ワクワクしますよねぇ。
本書は、「プロローグ 起こったかもしれないこと」「エピローグ 本当に起こったこと」の間に「中央刑事裁判所(オールドベイリー) 起こったと思われること」という裁判シーンが入っている構成になっています。
ヘンリー・メリヴェール卿が弁護人をつとめるって、型破りなことやってくれるんじゃないかと思ってワクワクしますよねぇ。人によっては、語り手ケン・ブレークとその妻イヴリンのようにハラハラかもしれませんが。
おかげで法廷シーンが劇的になります。退屈な尋問シーンもなんだか気になるシーンに早変わり。
読後振り返ってみると、ヘンリー・メリヴェール卿は超人的な推理力を発揮していますし、あれこれ偶然というか運もヘンリー・メリヴェール卿に味方しています。
「ユダの窓」トリックに焦点が当たり勝ちですが、そしてそのトリックは確かにとても素晴らしいものですが、行き違い、勘違いの積み重ねで、事件の様相がさっと変わってしまう手際の鮮やかさこそが本書の最大の長所ではないかと思いました。
そしてそのために、周到に物語も登場人物もしっかりと構成されています。
たとえば、密室状態の部屋から消えてしまう薬入りウィスキーのデカンターやグラスなど、二重三重によく考えられています。
傑作というにふさわしい作品だと思います。
本書には巻末に、瀬戸川猛資、鏡明、北村薫、斎藤嘉久の4氏による座談会(?)の記録が収録されています。しかも司会が戸川安宣。すごくぜいたくなメンバーということもありますが、これがまた楽しい。
カーって、いろいろと突っ込みどころも多い作家なだけに、かえって座談会が盛り上がる気がしますね。
<蛇足1>
開始早々に「時に酒を過ごしたり羽目を外して愉快に騒ぐこともあったが、」(16ページ)とあって、新訳にちょっとがっかりしました。
~たり、~たり、という由緒正しい文型はもう過去のものなのでしょうか...
<蛇足2>
「その日の午後エイヴォリー老がアンズウェルのフラットに電話をかけてきて」(17ページ)
とあっさり書かれていてちょっとびっくりしました。
日本でいうところのマンションやアパートのようなものをイギリスではフラットと呼ぶのですが、そういういい方はあまり日本では広まっていないと思っていたからです。
時代も変わって、注なしですっと理解できるくらい広まっているのでしょうか?
<蛇足3>
「私はお前のためによかれと思って一生懸命だった。」(174ぺージ)
新訳版がっかりパート2です。一生懸命...
<蛇足4>
「百歩も二百歩も譲って認めて進ぜる」(181ページ)
一般に「百歩譲って」というのは誤りでもともと正しくは「一歩譲って」であると認識しています。
したがって、「一歩も二歩も譲って」というのが正しい日本語表現かと思いますが、ここの表現は、HM卿が国王側弁護人に対して大幅に譲渡してやると大袈裟に言ってのける場面かと思われますので、正統な日本語といえなくても、誇張した表現としておもしろいと思いました。
(もっとも原文を読んでいないので、ニュアンスまではわからず、日本語訳から勝手に推察しているだけですが)
原題:The Judas Window
著者:Carter Dickson
刊行:1938年
訳者:高沢治
かくして殺人へ [海外の作家 カーター・ディクスン]
<裏表紙あらすじ>
牧師の娘モニカ・スタントンは、初めて書いた小説でいきなり大当たり。しかし伯母にやいやい言われ、生まれ育った村を飛び出してロンドン近郊の映画撮影所にやってきた。さあ仕事だと意気込むが、何度も死と隣り合わせの目に遭う。犯人も動機も雲を掴むばかり。見かねた探偵作家がヘンリ・メリヴェール卿に助力を求めて……。灯火管制下の英国を舞台に描かれた、H・M卿活躍譚。
この作品は新樹社ミステリーで単行本として出たときに読んでいます。
文庫化にあたって、全面的に改稿したそうです。
しかしまあ、見事に忘れていますね。
カーお得意の(へたくそだという人も大勢いらっしゃると思いますが、個人的には非常に味わい深いと思っています)ロマンスがフル回転するサスペンスものです。
主人公であるモニカが襲われる危機というのが、硫酸をかけられそうになる、銃撃される、というものなので、かなり深刻な事件なわけですが、どこかしらドタバタ喜劇を見ているような...
それは一つには映画撮影所を舞台にしているから、ということもありますが、やはりモニカとウィリアム・カーマイケルのやりとりが、(少なくとも周りや読者には)ユーモラスだから、かと思います。
探偵役はH・M卿なんですが、すごーく控え目で、なかなか出てきません。
第十四章まである本書で、第八章までは姿を見せず、そのあともなかなか腰をあげません。
しかも、事件については
「いったじゃろう」「わしはなくなったフィルムに興味があるのであって、ほかのことはどうでもいい。」「わしが暇だとでも思うのか? ほしいのはあのフィルムだというのに、水晶球を見て殺人者を占えと?」(177ページ)
なんて冷たいことをいう...
このフィルム消失事件というのが、まあ、脱力ものというか、なんか作者はH・M卿へのいじわるのためだけに考えついたのでしょうか(笑)?
事件のほうは、ドタバタに埋もれてしまっていますが、よく考えられた仕掛けが抛りこまれていまして(そのあたりはSAKATAMさんの黄金の羊毛亭をご覧ください)、面白い狙いが込められています。
解説では霞流一がベスト10級の古典作品(リンクをはっています。ネタバレになるのでクリックする際はお気をつけください)へのチャレンジだと指摘していますが、正直ピンときません。というか、この「かくして殺人へ 」が某作品へのチャレンジだというのなら、数多の作品も同様にチャレンジとなってしまいますし、取り立てて「かくして殺人へ 」を指摘することもないかな、と。
それに本書の狙いは、ベスト10級の古典作品と同じ方向ではないように思います。SAKATAMAさんはクリスティの「ABC殺人事件」 (ハヤカワ文庫)をあげておられますが(鋭い!)、ぼくは個人的に同じ作者の「葬儀を終えて」 (ハヤカワ文庫)を連想しました。まったく手つきは違うんですが。
ということで、カー(カーター・ディクスン)にしては軽量級であまり高く評価はされていませんが、そこそこイケてる作品なのでは、と思いました。
<蛇足1>
70ページに
「じゃあ、わたしはほんの十九にしか見えなかったっていうの?」
「十九歳に見られただなんて、本当は二十二で、自分では二十八には見えると思っていたのに。」
というのが出てきます。
若く見えればいい、というわけではないんですね。
日本だと喜ぶ人が結構いるような気がしますが。
<蛇足2>
「なあ、若きソーンダイク博士、本物の刑事なら、それを最初に訊くんじゃないんか?」(103ページ)
シャーロック・ホームズではなくて、ソーンダイク博士が出てくるところがおもしろいですね。
<蛇足3>
「少なくとも彼には、比べるまでもなくこの手紙の筆跡が黒板の文字と同じだとわかった。」(127ぺージ)
とあるのですが、紙に書く筆跡と、黒板の筆跡ってそんな簡単に比べられるものでしょうか?
まあ、それくらい似ていた、ということかもしれませんが...素人的にはずいぶん違う気がします。
<蛇足4>
貴族院に行かされるのをいやがるH・M卿というのが一つのフォーマットとなっているのですが、ケンに
「貴族の称号をやれといわれても、謹んで断ればいいでしょう?」(181ページ)
と言われて
「おやおや!おまえさんとて結婚しておるじゃろう?」(同)
と返すH・M卿がおかしい...しかも
「加えて、適齢期の娘がふたりおる。ケン、貴族の称号を断ったら家でどんな目に遭うか、考えるのも耐えがたい。夢に見て、冷や汗をかいて目を覚ます始末だ」(同)
と続きます。
H・M卿って、こういうキャラだったんですね...
原題:And So to Murder
著者:Carter Dickson
刊行:1940年
訳者:白須清美
貴婦人として死す [海外の作家 カーター・ディクスン]
<裏表紙あらすじ>
戦時下イギリスの片隅で一大醜聞が村人の耳目を集めた。俳優の卵と人妻が姿を消し、二日後に遺体となって打ち上げられたのだ。医師ルークは心中説を否定、二人は殺害されたと信じて犯人を捜すべく奮闘し、得られた情報を手記に綴っていく。やがて、警察に協力を要請されたヘンリ・メリヴェール卿とも行を共にするが……。張り巡らした伏線を見事回収、本格趣味に満ちた巧緻な逸品。
この作品はハヤカワ・ミステリ文庫版で読んでいます。
創元推理文庫の常(?)として、裏表紙のあらすじと、表紙扉の部分のあらすじがずいぶん違います。
扉の方もおもしろいので引用します。
私はルーク・クロックスリー、長らく医者をやっている。旧知のアレックは六十、妻のリタと年は離れているが、バリー・サリヴァンという若造が来るまでは平穏だった。リタは私に行ったのだ、バリーに惚れた、諦めきれないと。カード遊びに呼ばれアレックを訪ねた夜、海へ真っ逆さまの断崖まで続く足跡を残してリタとバリーは突如姿を消した。思い余って身を投げたのか。遺体は二日後に発見されたが謎は多々残っている。その話題で持ちきりの村を電動車椅子で暴走中の男は警察関係者らしいが、てんで頭が回らないとみえる。ふむ、ヘンリ・メリヴェール卿とやらに私が真相を教えてやるか……。
ね? おもしろいでしょう?
語り手である私は、「真相を教えてやるか」なんて感じではまったくなく、むしろリタもアレックも気に入っているので、やきもきしているばかりですが、これもミスディレクションになっているんですね、さすがはカー。
タイトルもかっこいい。読んでみるとあんまり「貴婦人として死す」って感じじゃないんですが...
再読のはずですが、すっかり忘れてしまっていて、ラストのトリック解明シーンになってようやく、トリックを思い出しました。最初に読んだとき、がっかりしたトリックだったんですよね。
でも今回はがっかりしませんでした。
むしろ、このトリックが、ヘンリ・メリヴェール卿の優しさ(?) を物語るエピソードの要素になっていることに感心してしまいました。
犯人の隠し方がおもしろい作品だったと思います。
被害者の不倫が物語の底流にあるので、いつものロマンスは控え目ですが、ちゃーんとあります!
H・M卿といえばつきものの、ドタバタシーンもしっかり!
カーはぬかりないですね。
この本、解説にあたるところに、山口雅也が「結カー問答」というのを書いています。
これが素晴らしい。
カー問答といえば、江戸川乱歩に松田道弘で、どちらも何度も読んだなぁ、と。
カーは、創元推理文庫の巻末に掲げてあった顔写真が怖くて避けていたのですが、松田道弘のカー問答を読んでから、俄然読む気になったことを思い出します。江戸川乱歩のカー問答を前提に、乱歩にはなかった視点を繰り出してくるところが、興味を引いたんです。
山口雅也のカー問答もおもしろいですよ。
それぞれが挙げるカーの特徴というのも、違いを並べるとなかなか楽しい。
江戸川乱歩の挙げたもの
①空想派的作風(チェスタトンからの影響)
②密室・不可能犯罪のトリックメイカー
③怪奇(オカルト)趣味
松田道弘の挙げたもの
①ロマンス(伝奇騎士物語)好み
②奇術愛好癖による趣向だて
③職人作家としてのサービス精神
そして山口雅也が挙げているのが
①フーダニット(誰がやったか? =犯人隠蔽)の名手
②神のごとき視点の高さ
③ユーモア--取り分けスラプスティック・コメディに長けている
④世界大戦の影
山口雅也だけ4つというのはちとずるい気もしますが、戦争も中に取り込む意欲というのはおもしろい着眼(瀬戸川猛資も指摘していたと思います)ですし、偶然の解釈も楽しかったので、〇。
創元推理文庫はカーをじゃんじゃん復刊してくれているので、これからも期待しています!
<蛇足1>
104ページに「猥(みだ)りがわしい」という語が出てきます。
はじめて見ました。辞書引いちゃいました。
「みだらである。好色でいやらしい」とか「 規律・礼儀・風紀などが乱れている」という意味なんですね。
<蛇足2>
157ページに
「最後に見えたのはH・M卿の見事に禿げ上がった後頭部で、車が走り去っていく時いかにも意地悪そうにぎらりと光った」
とありますが、意地悪そうに光る禿げ頭って...
思わず笑っちゃいました。
原題:She died a lady
著者:Carter Dickson
刊行:1943年
訳者:高沢治
黒死荘の殺人 [海外の作家 カーター・ディクスン]
<裏表紙あらすじ>
曰く付きの屋敷で夜を明かすことにした私が蝋燭の灯りで古の手紙を読み不気味な雰囲気に浸っていた時、突如鳴り響いた鐘――それが事件の幕開けだった。鎖された石室で惨たらしく命を散らした謎多き男。誰が如何にして手を下したのか。幽明の境を往還する事件に秩序をもたらすは陸軍省のマイクロフト、ヘンリ・メリヴェール卿。ディクスン名義屈指の傑作、創元推理文庫に登場。
ディクスン・カーの別名義、カーター・ディクスンの第2作で、ヘンリ・メリヴェール卿初登場です。
この作品が初登場ですか。いきなり傑作でデビューしたんですね。
この作品は、「プレーグ・コートの殺人」 というタイトルで、ハヤカワ・ミステリ文庫から出ていました。最近の復刊ブームのおかげで、新訳が創元推理文庫から出ました。
非常に名作の誉れ高い作品なんですが、「プレーグ・コートの殺人」 を読んだときにはピンときませんでした。
今回再読してよかったですね。たっぷり楽しみました。
この作品、非常に有名なトリックが使われているので、そこにばかり注目が集まってしまうかもしれませんが、というか、正直それしか覚えていなかったのですが、いやいや、それはこの作品の魅力のほんの一部にすぎません。
大小さまざまなトリックや仕掛けがめぐらされており、たっぷり。贅沢なつくりです。
有名なトリックですら、仰々しくも派手さもなく、非常にあっさりと明かされてしまいます。おどろおどろしい舞台にぴったりの、創意あふれるトリックだというのに、こんなに軽い扱いでいいのかな、と逆に戸惑うくらいです。つまり、あの有名なトリックにちっともよりかかっていないのです。手の込んだ、名匠カーの手腕を堪能するのにぴったり。トリックだけ先に知ってしまっているからな、と読むのをためらっている方がいれば、そのトリックだけじゃない魅力があるので、ぜひぜひ手に取って読んでください。
騎士の盃 [海外の作家 カーター・ディクスン]
<裏表紙あらすじ>
誰かが鍵のかかった部屋に入り、騎士の盃を動かしている--ブレイス卿夫人の訴えに、マスターズ警部は現地へ赴いた。近くに住むH・M卿を頼みにしていたが、卿は歌の練習に余念がない。仕方なく自ら問題の部屋に泊まった夜、警部は何者かに殴られた。ここに至り卿はやっと重い腰をあげた。だが、ドアを抜け、宝物を盗まずに動かすだけという怪人の真意とは? 著者得意の密室犯罪をユーモラスに描くH・M卿最後の長篇
不可能犯罪の巨匠といわれるディクスン・カーが、カーター・ディクスン名義で発表したH・M(ヘンリー・メリヴェール)卿最後の長篇です。
殺人事件はありませんが、この作品でも密室状態の事件を扱っています。
密室トリック自体は割と平凡な印象ですが、その使い方、犯人との関連づけはさすがだと思います。しかしながら、この作品の眼目はやはり、密室トリックではなく、なぜ犯人は盃でいたずらしただけで盗まなかったのか、という謎でしょう。動機も巧妙に隠されています。密室であること自体が一種のミスディレクションとなっていてすばらしい。不可能犯罪の巨匠というのはその通りですが、トリックだけにとどまらず、謎の扱い方、演出に秀でた作家だったのだなと改めて思います。
H・M卿が登場する作品らしく、この作品でもドタバタというかハチャメチャな展開があります。H・M卿が事件そっちのけで歌の練習をしている! というだけでも相当なものですが、その歌声のたとえが、"爆弾"とか"咆哮"...うーん、聞きたくない。H・M卿はドラえもんのジャイアン並みの扱いです。
H・M卿とは旧知の仲というブレイス卿夫人の父ハーヴィ(アメリカの下院議員)とのイギリス対アメリカの優劣争い(?)、労働党女性議員チーズマンとH・M卿との新旧勢力の争い、そしてハーヴィ議員とチーズマン議員のやりとりと、いずれもカーのやりたい放題です。ちょっと泥臭い感じもしますし、これが好きになれない人も結構多いのではないかと思います。
カーの作品というだけで、それなりに幸せな気分になるのですが、ブレイス卿夫人が事件を説明しようとするとマスターズ主任警部がいちいち話の腰を折ってちっとも進まないので、さすがに冒頭いらいらしていしまいました。1/3ほど進んでもまだ説明が終わらないのですよ! マスターズってこんな嫌なやつでしたっけ?
「ちゃんとした探偵小説でないといやなんです。手のこんだ、洗練された問題を提起して、読者にも謎ときの機会を公平に与えてくれるものでないとね」「作者がじょうずに書けないので、心理学の研究だなんていっているのはだめね」なんてせりふも出てきてニヤリとしました。誰の作品を念頭にカーは書いたのでしょうね?
というわけで万人にお勧め、とはいきませんが、本格ミステリがお好きなら、読んで損したことにはならないと思います。
ところで原書は1954年。第二次世界大戦後10年近いのですが、貴族、屋敷だなんだと、こんな感じだったのですね。なんだか不思議な感じです。