中庭の出来事 [日本の作家 恩田陸]
<カバー裏あらすじ>
瀟洒なホテルの中庭で、気鋭の脚本家が謎の死を遂げた。容疑は、パーティ会場で発表予定だった『告白』の主演女優候補三人に掛かる。警察は女優三人に脚本家の変死をめぐる一人芝居『告白』を演じさせようとする──という設定の戯曲『中庭の出来事』を執筆中の劇作家がいて……。虚と実、内と外がめまぐるしく反転する眩惑の迷宮。芝居とミステリが見事に融合した山本周五郎賞受賞作。
2024年4月に読んだ2冊目の本です。
恩田陸の「中庭の出来事」 (新潮文庫)。
山本周五郎賞受賞作。
恩田陸としては、前作「チョコレートコスモス」 (角川文庫)(感想ページはこちら)に続いて演劇が題材として選ばれています。
「中庭にて」
「旅人たち」
『中庭の出来事』
の3つのパートに分かれているようで、『中庭の出来事』は演劇の台本形式になっています。
冒頭「中庭にて1」は中庭を望むホテルのカフェ・レストランでの女優同士の対決シーン。神谷という脚本家の死を回想し、ラストで片方が死ぬ。
続く「旅人たち1」は山中をいく男二人。オフィス街の谷間の中庭で急死した若い女性の話。
「中庭にて2」は「中庭にて1」と同じようなシーンが繰り返される......冒頭と同じようなシーンでおやっと思うのですが、脚本に基づいてオーディションが行われているのだとわかります。それも神谷という脚本家が書いた脚本に基づいて。
「中庭にて3」になると男性のシーンとなり、「旅人たち1」で語られた若い女性の急死の目撃談。
そのあとの『中庭の出来事1』は、脚本形式で、オーディションに挑んだ女優3人と刑事の思われる男の取り調べの様子。
以下「中庭にて」は11、「旅人たち」は7、『中庭の出来事』は10まで語られていき、まとめとして(?)最後に「中庭にて、旅人たちと共に」という章が置かれています。
引用したあらすじにも「虚と実、内と外がめまぐるしく反転する眩惑の迷宮」と書かれていますが、まったくその通り。
どこが(小説の中の)現実で、どこが劇中、あるいは脚本かを考えながら読んでいっても混乱してきます。
神谷という脚本家の書いた脚本は、女優を題材にしたもので、これも混乱に拍車を。
神谷という脚本家の書いた脚本、神谷の死、脚本に基づくオーディション、女優の死。そこにオフィス街の女性の死がどう絡むのか、絡まないのか。そしてそれを語る謎の(?) 男たち。
さらに「中庭にて5」に至って、細渕という脚本家が登場、オフィス街の女性の死を聞き、「中庭にて6」では細渕が楠巴という友人に、構想中の脚本の話(とオフィス街の女性の死)を相談する。この細渕の構想している脚本というのが
「ある舞台脚本家が、新作舞台の女優のオーディションをする。新作舞台は、一人芝居。三人の女優をオーディションに残している。その結果発表と宣伝を兼ねて、彼はここによく似たホテルの中庭で内輪のパーティを開くんだ。そこで、彼は飲んでいた紅茶のカップに毒を盛られて死ぬ」(161ページ)
「捜査の結果、オーディションに残った女優3人に絞られる。被害者の脚本家は、その三人のうちの一人を脅迫していたらしい。何度も脅迫されて金をとられていた女優は、耐え兼ねて金を出すのをついに断る。脚本家は、芝居を書く。その女優を告発する芝居を。彼は、その一人芝居をその本人にやらせようとしていたんだ。だから、彼が発表するはうだったキャストが犯人というわけさ」(162ページ)
「その芝居は巧妙に書かれていて、犯人にはわからない、犯人を指摘するヒントが隠されているらしい。そこで、捜査陣は、実際にその三人に問題の一人芝居を演じさせて、誰が犯人かつきとめようとするんだ」(162ページ)
「実際の女優たちへの取り調べと、彼女たちの演じる一人芝居とが交錯する。その両方から、その一人芝居が誰のために書かれたものか推理していく、という趣向なんだ」(163ページ)
と説明される内容で、一層こんがらがってきます。
「旅人たち3」に
「俺だったら、伏線になる部分や、決めの台詞にそういうものを入れるね。話の構成上、のちのちに繋がっていく台詞、必ず言わなければならない台詞の中に」
「だから、思い出してみるんだ。あの三人の女たちの共通の台詞の中に、犯人を特定できる鍵があるはずだ」(170ページ)
なんて(ミステリとしては)挑発的な台詞も出てきますし、気合を入れて読み返してみても、混乱は深まるばかり......
こういう劇中劇、作中作で、虚実が入り乱れるという趣向そのものがあまり好きではないのですが、そこは恩田陸のこと、しっかり楽しく読むことができました。
結局のところ、何が真実で、何が虚構だったのか、という部分は、いろいろな解釈が可能なのかもしれません。
読者それぞれに真実があるのかもしれません。
以下ネタバレ気味になりますが、見当はずれなコメントである可能性大ながら、ぼくの解釈を記しておきます。
気になる方は以下は飛ばしてください。
結論として、全体が虚、と解釈しています。
すべては細渕という脚本家が書いたもの。
ラストで、細渕と巴の二人も舞台に上げられ、劇中に取り込まれるというメタ趣向のある脚本ですが、細渕が細渕、巴が巴として出演する舞台の脚本、という理解です。
終章で、巴が
「中庭は、都市に似ている。」
「中庭は都市の雛型。あたしたちの住む世界の縮図。人々は常に囲い込まれたがっている。他人からの視線を遮断し、管理され、安全で心地よい場所に逃げ込みたがっている。その一方で、人々は囲い込まれていることに閉塞感と孤独を感じている。だから、人が集まる場所に出てゆき、大勢の中の一人であることを確認せずにはいられない。そして、中庭はいつも「見られる」運命にある。そもそも人々の視線なしには成立しえない空間なのだ。「見られている」という意識は、常に虚構を孕んでいる。中庭は、見る者と見られる者の双方に演技を強いる。それゆえに虚構は中庭の外にも広がっていく。」(483ページ)
と思うシーンがあり、中庭を介在して、そもそも虚構と現実とは交じり合う、という認識が示されています。
とすれば、虚構がすべてを飲み込むことも、現実がすべてを飲み込むことも、あり得るということで、そのことを示すのが本書なのでは、と理解しています。
<蛇足1>
「なんだか、あれを思い出したな。古い探偵小説か何かにあったでしょう? 『笑ったライオン』っていうの」
「『笑ったライオン』? 知らないな。俺は神谷やおまえみたいにミステリ好きじゃないからな」
「有名なトリックですよ。サーカスの芸人で、ライオンに口に頭を入れてみせる芸をする男がいる。ある日、いつものようにその芸をするんですが、その日はなぜかライオンがニタリと笑って、その男をばぶりと嚙み殺してしまう。さあ、どうしてライオンは笑ったのか?」(37ページ)
このあとネタばらしが行われています。要注意。
これ、四十面相クリークの事件簿 (論創海外ミステリ)のなかのエピソードですね。
<蛇足2>
「店もそうだ。動いていても、何をしていても、お客の動きは視界の隅になんとなく入ってくる。お客同士の雰囲気や、何か頼みたそうな気配も、小さな手の動きや視線で伝わる。だから、お客としてよその店に行った時、たいした広さの店舗でもないのに、お客が手を振って呼んでいても気が付かない店員がいるのが不思議でたまらない。ほとんどは自分の仕事の手順をスムーズにするためにわざと無視しているのだろうが、中には本当に気付いていない店員がいて、そいつは正真正銘の馬鹿だと思う。」(300ページ)
教師は教壇からよく見えるというのに続いて語られる場面です。
えっ、そうなんですか? あれ、わざと無視されているんですか......うーむ。
チョコレートコスモス [日本の作家 恩田陸]
<カバー裏あらすじ>
芝居の面白さには果てがない。一生かけても味わい尽くせない。華やかなオーラを身にまとい、天才の名をほしいままにする響子。大学で芝居を始めたばかりの華奢で地味な少女、飛鳥。二人の女優が挑んだのは、伝説の映画プロデューサー・芹澤が開く異色のオーディションだった。これは戦いなのだ。知りたい、あの舞台の暗がりの向こうに何があるのかを──。少女たちの才能が、熱となってぶつかりあう! 興奮と感動の演劇ロマン。
2022年10月に最初に読んだ本です。
追うように、というのか、追われるようにというのか、とにかく夢中になって読む本というのがあります。
この「チョコレートコスモス」 (角川文庫)は、まさにそういう本でした。
だいたいあらすじは読まずに読み始めるのですが、感想を書こうとして上のあらすじを引用して、ちっともこの作品の紹介としてふさわしくないあらすじだな、と思いました。
引用しておいて言うのもなんですが、あらすじは読まずに取り掛かった方がいいです。
主人公は、大学で芝居を始めたばかりの飛鳥。
なのですが、彼女の視点から物語られることはほとんどありません。
もう一人の主人公は、芸能一家に生まれ幼いころから芸能人として活躍してきたスター、響子。
こちらは最初から視点人物(の一人)として登場します。
この響子の物語るところから、飛鳥の特異性が浮かび上がってきます。
かなり後半の方になりますが、
「子供のころから周囲にプロと芸能人ばかりいたので、天才と呼ばれる役者は数多く見てきた。その芸と華には幼い頃から感動してきたし、その凄さも分かっているつもりだ。
しかし、あの少女は、全く違う方向から出てきたとしか思えないのだった。
こうしてみると、響子の知っている天才たちは、環境のもたらした華でありポジションであり、彼らの芸が昔から連綿と続く『芸能界』で耕され、受け継がれてきたものだということがはっきりする。端的に言うと、広い意味での『仲間うち』での型というものが知らず知らずのうちにできてしまっていて、その中での『うまさ』や『天性』が評価の基準になってしまっているのである。『芸能界』にもいろいろあるが、そのすべてをひっくるめて、『芸能界を生きる』こと自体が一つの型に嵌まってしまっているのだ。
だが、あの子の自然さはどうだろう。」(410ページ)
というくだりなどはその象徴です。
この物語は、役者だったり、脚本家だったり、視点人物が芸能関係者です。
そのおかげで、芸能に縁遠いこちらにも、飛鳥の像がいっそうくっきり浮かび上がってきます。
「そうか、あの子には『自意識』が感じられないのだ。」
「役者になろうなんていう人間は、多かれ少なかれ自意識過剰なものだ。温厚だ、欲がないと言われる役者でも、その内側に秘めた自意識は強烈である。時に本人すら持て余し、どうにもコントロール不能の自意識。その厄介さが役者という人種の複雑さであり、同時に魅力でもある。あおいにしろ、葉月にしろ、強烈な自意識の持ち主であることは明らかだ。響子自身、優等生的ではあるが、誰にも見せないところに複雑な自意識が存在することを自覚している。
しかし、そういった強烈な自意識のない人間が役者をやるというのは──」(411ページ)
なんだか、読んでいてぞくぞくしませんか?
物語の前半は、飛鳥が初めて出た芝居の話が中心で、ここもかなり強烈な印象を受けます。
芝居というものは観たことがないに等しい状態なのですが、この本で芝居の見方を教えてもらっているような気がしました。
作者恩田陸が、文庫版あとがきに「オーディションの話を書きたい。」「よし、ほとんどがオーディションの場面、みたいな小説を書こう。」と書いているように、物語の中盤以降はオーディションの場面です。
これがもう、スリリングでスリリングで。
本当に息を詰めるように読みました。
とても、とてもおもしろかったです。
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ネクロポリス [日本の作家 恩田陸]
<カバー裏あらすじ>
懐かしい故人と再会できる場所「アナザー・ヒル」。ジュンは文化人類学の研究のために来たが、多くの人々の目的は死者から「血塗れジャック」事件の犯人を聞きだすことだった。ところがジュンの目の前に鳥居に吊るされた死体が現れる。これは何かの警告か。ジュンは犯人捜しに巻き込まれていく──。<上巻>
聖地にいる173人全員に殺人容疑が降りかかる。嘘を許さぬ古来の儀式「ガッチ」を経ても犯人は見つからない。途方にくれるジュンの前に、「血塗れジャック」の被害者たちが現れて証言を始めた。真実を知るために、ジュびじねすぶいれいくへ向かうが……。<下巻>
2022年2月に最初に読んだ本です。
恩田陸というと、やはり作品で展開される世界に浸ることが大きな楽しみであり、そういう世界を展開していくれるところが魅力ですが、この「ネクロポリス」 (上) (下) (朝日文庫)でもたっぷり浸れます。
舞台設定が周到なんですよね。
亡くなった人「お客さん」に会える年に一度のヒガン(彼岸)という行事が行われる島のアナザー・ヒル。アナザー・ヒルは V. ファー(ファーイースト・ヴィクトリア・アイランド)という国にあり、海流の関係で、日本からもまとまった数の人間が流れ着いて暮らしていたところ、ヒガンが今の形になったのは十八世紀後半とのことで、1870年代末に日本が英国統治領となり、正式に V.ファーとなった、と(下巻114~115ページあたり)。
なので、日本とイギリスが混じり合った独自の風習を持つ地域になっている。
タイトル「ネクロポリス」は、墓地を意味しますから、少し意味がずれていますね。
死者が年に一度帰ってくる、となると、彼岸ではなくお盆じゃないの? と思ったりもしましたが、日英合作であるからでもあるでしょうし、ぼくは最後まで読んで納得したりもしました。
冒頭死体が発見されるのも鳥居ですし、そのあともいろいろと日本を思わせる風物が出てきます。
このあたりの馴染みやすさが、世界に浸る大きな手掛かりとなります。
読者が連想しやすい事柄を、うまく組み合わせて世界が作り上げられているわけです。
巻き起こる様々な事件や騒動のたびに、強くイメージが喚起されるかたちになっていまして、上下巻で世界にどっぷり。
「独特で、荘厳で、不思議な雰囲気に気圧された」(上巻364ページ)
というセリフがありますが、世界に浸る快感を、恩田陸を読む快感を味わいます。
そしてその世界が変貌していくところを見せつけられます。
どっぷり浸った読者は、変わってしまう世界にハラハラしてしまうのです。
「全てを暗がりから引っ張り出す時代とでもいうのかな――これまでは、『ずっとずっとそうやってきてるからそういうものだ』とか『みんなこうしてきたんだ』という説明で済んだものが、だんだんそれでは済まなくなってきて、知らずに済んだことまで知らなければならない時代になってしまった。」(下巻382ページ)
「毎年ここにやってきて、『お客さん』たちと日々対面しているわけだからね。この国民性は変わらない。だけど、世界からどんどん情報や他者が入ってきて、いろいろな考え方があることも浸透してきている。みんな、ヒガンの存在について、これでいいのか、このままでいいのか、これが当たり前なのか、と疑う気持ちがじわじわ育ってきているんだ。口には出さないけれど、みんなの共同的無意識の中に、ヒガンや『お客さん』に対する猜疑心が生まれてきている。」(下巻386ページ)
そして迎えるクライマックスは、ある意味、拍子抜け、です。
来るぞ、来るぞ、と煽り立てていく、たとえばホラーの文脈からいうと、その結果出てくるものはかなりの変化球といえるでしょう。
ここは極めて恩田陸らしいともいえるポイントです。
ボスキャラ登場のような展開になってしまうと、世界の変貌、変容ではなく、断絶という展開が導かれますから、ベクトルが違うのではないでしょうか。
イメージ豊かに喚起される世界に浸るべく、お読みください。
ところで、この作品、いくつか気になる点があります。
一つ目は、『お客さん』の設定。
「あなたには、他の『お客さん』が見えるんですか?」
「うーん。見える、というんじゃなくて、感じる、というのかな。近くにいると気配は感じるし、見えることもある。だけど、他の『お客さん』と完全に一致した世界にいるという感じじゃないね。ガラス張りのビルがあって、それぞれ別のフロアにいる感じかな。いるのは分かるけど、同じ地平に立っているわけじゃないし、手を触れられるわけじゃない。そんなイメージだ。」(下巻62ページ)
と『お客さん』に説明されるシーンがあります。
ところが、連続殺人犯『血塗れジャック』の被害者五人が連れ立ってヒガンに現れるシーンが下巻126ページあたりからあって矛盾しています。
この物語中で、アナザー・ヒルが変容しつつあるという展開になっていますので、『お客さん』のありようも変わったのだ、ということでしょうね。
ここはクライマックスの伏線、というわけですね。
二つ目は、ラインマンというアナザー・ヒルの原住民に近い存在が登場し、その目が「右が茶色、左が深緑」(下巻221ページ)という設定で、「我が家の家計は皆、こういう目をしているんだよ」(下巻223ページ)と行方不明になっている彼の姉がその逆「右が緑色、左が茶色」と説明されています。
そのあと、ガラス壜が見つかり、
「その中にゆらゆらと浮かんでいるのは、緑と茶の虹彩を持った、二つの白い眼球だったのだ。」(下巻279ページ)
と主人公ジュンが衝撃を受ける展開となります。
眼球がガラス壜に浮かんでいるというイメージには圧倒されますが、姉のものとは限らない気がしました。
ラインマンの説明を聞いていればジュンのように考えるのが普通かもしれませんが、二人分の眼球ということだって考えられるわけで、ミステリを変にたくさん読んでいると、こういう風にひねくれてしまうので、いけませんね。
さらにひねくれついでに言ってしまうと、結局この目は姉のものではなかったことがすぐに判明するのですが、
「あのような珍しい特徴を持つ眼球は、ラインマンの親族以外にありえない。」(下巻292ページ)
とされていて、うーーん。
最後に、密室状況からの消失といったミステリっぽい謎があったりもするんですが、その解決が......
「アナザー・ヒルだからこそ成り立つ密室状況か!」(344ページ)
なんていうセリフも出てきますが、まあ、あまり密室などには期待せずお読みください。
<蛇足1>
「これでも未来を嘱望されている学士様なんだから」(17ページ)
東京大学に文化人類学の院生として 在籍している主人公ジュンのことを指していうセリフです。
かなり古い時代設定ならともかく、今 ”学士様” とかいいますかね? さらにそこに未来を嘱望とまでつけるかなぁ?
学士がありふれている現在、ここまでいうことはないと思い違和感を感じました。
<蛇足2>
「ええ、お陰様で、大変興味深く拝見させていただいております」(上巻290ページ)
主人公であるジュンのセリフです。
「拝見させていただく」は、もう間違いという指摘をはねのけるほど定着してしまっているのでしょうね。
それにしても、この作品舞台アナザー・ヒルは日系人が多く住んでいるものの日本ではなく、イギリスに統治されていた島国V. ファーという設定で、何語を話しているのか書かれていないのですが、おそらく英語でしょうね。
とすると、この本来間違っている敬語を英語でどういうのか気になりますね。
<蛇足3>
「些かゾッとしない遭遇だったな」(上巻374ページ)
ヴィクトリア大学の教授のセリフです。
『「ぞっとしない」は「面白くない」「感心しない」という意味の言葉です。「ぞっと」という副詞は,主に恐怖によって寒気を感じるようなときに用いますが,「―しない」の形になったときの「ぞっと」は,「怖い」「恐ろしい」という意味ではありません。』
文化庁のHPにこういう解説があります。
ここでの教授のセリフは「怖い」「恐ろしい」という意味で使われているような気がします。
「ぞっとしない」という表現に初めて出会ったのは、鴨川つばめのマンガ「マカロニほうれん荘」だったことを懐かしく思い出しました。
<蛇足4>
「コーヒーは、やはりビジネスブレイクという感じがします。ビジネスがメインにあって、コーヒーはあくまで息抜き。でも、紅茶は紅茶のためのブレイクなんですね。一日は紅茶がメインで支配していて、それ以外の時間は紅茶に隷属しているんですね」
「うむ。そもそも、彼らにはビジネスブレイクというのがないんだよ。どうも生き方そのものが趣味っぽいというか、嗜好じみている。その辺りに紅茶を好む秘密がありそうなんだが」(どちらも上巻404ページ)
イギリス(文化)を指して言っている部分ですね。
実際にロンドンに住んでみると、それほど紅茶、紅茶という感じはしませんし、ティーショップよりはコーヒーショップの方が多いのですが(スターバックスなどの蔓延っていることおびただしい)、それでも紅茶屋さん(茶葉を売っている店)は確かによく見ます。
そういえば、コーヒーで COSTA というチェーンのものがペットボトルで日本でも売られるようになりましたが、おいしくないですよね......なぜわざわざ不味いイギリスのコーヒーを日本で売るのでしょう??
<蛇足5>
「ホラーをサイコに持っていくっていうの、あたし、あんまり好かないんだけどな」(313ページ)
登場人物のセリフなのですが、恩田陸ご本人のお考えなのでしょうか? 気になります。
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八月は冷たい城 [日本の作家 恩田陸]
<外箱あらすじ>
夏流城(かなしろ)での林間学校に初めて参加する光彦。毎年子どもたちが城に行かされる理由を知ってはいたが、「大人は真実を隠しているのではないか」という疑惑を拭えずにいた。ともに城を訪れたのは、二年ぶりに再会した幼馴染の卓也、大柄でおっとりと話す耕介、唯一、かつて城を訪れたことがある勝ち気な幸正だ。到着した彼らを迎えたのは、カウンターに並んだ、首から折られた四つのひまわりの花だった。少年たちの人数と同じ数――不穏な空気が漂うなか、三回鐘が鳴るのを聞きお地蔵様のもとへ向かった光彦は、茂みの奥に嫌を持って立つ誰かの影を目撃する。閉ざされた城で、互いに疑心暗鬼をつのらせる卑劣な事件が続き……? 彼らは夏の城から無事に帰還できるのか。短くせつない「夏」が終わる。
この「八月は冷たい城」 (ミステリーランド)は、「七月に流れる花」 (ミステリーランド)の感想にも書いたように、同時発売でした。(奥付は2016年12月)
既に文庫化されています。講談社タイガ版、講談社文庫版があるようです。
講談社文庫版は、「七月に流れる花」と合本です。
「七月に流れる花」 (講談社タイガ)が女子バージョンであったのに対し「八月は冷たい城」 (講談社タイガ)は男子バージョンです。
時間軸も、タイトルから明らかではありますが、すこし男子バージョンの方が後に設定されています。
そして、「七月に流れる花」 のネタバレ、というか、物語世界の設定が明らかになっているという前提で話が幕開きします。
(なので「七月に流れる花」 から読んだほうがよいです)
男子サイドは、光彦、卓也、幸正、耕介の4名で、どことなくひんやりした手触りの作品になっていることに変わりはありませんが、女子サイドと比較するとかなり動的です。
物語世界の設定を前提に、事件が発生します。
鎌が仕掛けられていたり、彫像が倒れたり......
まさに、死の危険がある林間学校になっています。
やはり注目は、物語世界の設定あればこその事件になっているということでしょう。
ネタバレにつき色を変えておきますが、
「なんというグロテスクで残酷な状況だろう。みんなに気を遣いながら、親が死ぬのを待ち続けるなんて。」(95ページ)
というところに、この物語のエッセンスが詰まっています。
そして、最後に明かされる(とはいえ、登場人物による想像にすぎないのですが)「みどりおとこ」の正体。
あまりのグロテスクさに、ここまでする必要あるかな、と思ってしまいましたが(もっと穏やかな謎解きであっても、少年の成長物語としての骨子は揺るがないので)、これは好みの問題なのかもしれません。
雰囲気作家恩田陸を味わう入門書として、
「七月に流れる花」
「八月は冷たい城」
はいいかもしれません。
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七月に流れる花 [日本の作家 恩田陸]
<外箱あらすじ>
坂道と石段と石垣が多い町、夏流(かなし)に転校してきたミチル。六月という半端な時期の転校生なので、友達もできないまま夏休みを過ごす羽目になりそうだ。終業式の日、彼女は大きな鏡の中に、緑色をした不気味な「みどりおとこ」の影を見つける。思わず逃げ出したミチルだが、手元には、呼ばれた子どもは必ず行かなければならない、夏の城――夏流城(かなしろ)での林間学校への招待状が残されていた。ミチルは五人の少女とともに、濃い緑色のツタで覆われた古城で共同生活を開始する。城には三つの不思議なルールがあった。鐘が一度鳴ったら、食堂に集合すること。三度鳴ったら、お地蔵様にお参りすること。水路に花が流れたら色と数を報告すること。少女はなぜ城に招かれたのか。長く奇妙な「夏」が始まる。
この「七月に流れる花」 (ミステリーランド)は、「かつて子どもだったあなたと少年少女のための」という宣伝文句だったミステリーランドという叢書から出た作品で、同じ恩田陸の「八月は冷たい城」 (ミステリーランド)と同時発売でした。(奥付は2016年12月)
この2作で、ミステリーランドは全30冊が完結した、と巻末の広告ページに書かれています。
既に文庫化されています。講談社タイガ版、講談社文庫版があるようです。
講談社文庫版は、「八月は冷たい城」と合本ですね。
「八月は冷たい城」 (講談社タイガ)よりも先に、この「七月に流れる花」 (講談社タイガ)を読んだ方がいいです。
舞台となっているのはタイトルからもわかるように夏なのですが、どことなくひんやりした手触りの作品になっています。
というのも......、とその理由を書いてしまうと、ネタバレになってしまいますね。
雰囲気としては、ゴシックロマンに近いのかもしれません。
この作品は、主人公であるミチルがやってきた夏流という町、そしてミチルが招待される林間学校、招待状を届けてくる「みどりおとこ」の謎を扱っているのですが、そもそも「何が起こっているのか」「何をしているのか」がメインなので、なにかちらっとでも書いてしまうと、すべてがネタバレになってしまいます。
ファンタジーと呼ぶにはリアルな手触りでありながら、設定自体は現実から少々飛躍したものになっています。
なので、読者サイドは、謎を解く、ということを目指すのではなく、作者の構築した世界観を味わうことに注力すべき作品なのだと思います。
雰囲気づくりに長けた恩田陸の面目躍如といったところでしょうか。
明かされる事実、世界の設定は、ちょっと現実にはあり得ないな、というものですが、物語としてはさほど奇異なものではないのかもしれません。
「六月という半端な時期の転校生」というのも含めて、
主人公の大木ミチルのほか、林間学校の舞台となる夏流城では、佐藤蘇芳、斉木加奈、稲垣孝子、塚田憲子、辰巳亜季代が、迎えが来るまでという期限の定まらない生活を送ります。
この6人の人物像が短い作品なのにくっきりと浮かび上がってくるのがさすがです。
途中、塀の向うにも人がいる--しかも男の子たちであることがわかりますが、そちらについては最後に
「同じ夏、塀の向こう側で起きていた出来事は、また別の新たな物語となる。」(216ページ)
と書かれていて、それが同時刊行だった「八月は冷たい城」となります。
朝日のようにさわやかに [日本の作家 恩田陸]
<裏表紙あらすじ>
葬式帰りの中年男女四人が、居酒屋で何やら話し込んでいる。彼らは高校時代、文芸部のメンバーだった。同じ文芸部員が亡くなり、四人宛てに彼の小説原稿が遺されたからだ。しかしなぜ……(「楽園を追われて」)。ある共通イメージが連鎖して、意識の底に眠る謎めいた記憶を呼び覚ます奇妙な味わいの表題作など全14編。ジャンルを超越した色とりどりの物語世界を堪能できる秀逸な短編集。
あとがきによると「図書室の海」 (新潮文庫)(ブログへのリンクはこちら)から5年ぶりとなる短編集。
「図書室の海」 の感想の際に書いたように、「恩田陸という作家は、雰囲気というか、トーンというかを非常に重要視している作家だと勝手に思っています。」 なので、この種の短編集は恩田陸を楽しむアラカルトのような感じです。
特に巻頭の「水晶の夜、翡翠の朝」の雰囲気、イメージが個人的には好きです。
「麦の海に沈む果実」 (講談社文庫)、「黄昏の百合の骨」 (講談社文庫)のシリーズの番外編といえば、お読みなった方はわかると思います。
静けさの中に忍び込む悪意というか邪気というのは、こんなのを好きだというと変な奴だと思われるかもしれませんが、好みですね。
「赤い毬」も、正直なんだかよくわからない話なのですが、イメージに圧倒されます。
「淋しいお城」のようにエンディングの処理に既視感があってもよいのです。雰囲気に浸ることこそ、恩田陸の作品を読む快感なのですから。
だんだん、恩田陸の楽しみ方がわかってきたような気がします。
タグ:恩田陸
木洩れ日に泳ぐ魚 [日本の作家 恩田陸]
<裏表紙あらすじ>
舞台は、アパートの一室。別々の道を歩むことが決まった男女が最後の夜を徹し語り合う。初夏の風、木々の匂い、大きな柱時計、そしてあの男の後ろ姿――共有した過去の風景に少しずつ違和感が混じり始める。濃密な心理戦の果て、朝の光とともに訪れる真実とは。不思議な胸騒ぎと解放感が満ちる傑作長編!
限定された人物が、過去を回想して議論(?) して、真相を(?) 探る、という話です。
恩田陸さんだと、「木曜組曲」 (徳間文庫)がこのパターンでした。このとき5人。
この「木洩れ日に泳ぐ魚」 (文春文庫)は、たったの二人。
交互に二人の視点でつづられていきます。
これで長編を支えるというのは結構たいへんだと思うんですが、さすがは恩田陸さん、楽々と難題をクリアされています。
当事者が回想して、回答を見つけだす、という枠組みですから、データがあらかじめすべて提示されているわけではなく、読者から見れば、後出しじゃんけんオンパレード。なので、この種の作品の場合、読者の楽しみは自分で謎を解いていくことではなく、カードをめくっていくように、次々と明らかになる意外な事実の積み重ねを味わうことにあると思います。
この作品の場合、過去の秘められた事実が明らかになる、すなわち登場人物ふたりにとって意外な事実が明かされるということに加え、登場人物ふたりには既知でも読者にとって意外な事実が明らかになる部分もあり、この2種類の意外な事実の組み合わせで、どんどん引っ張っていきます。大がかりな仕掛けで派手な驚きを演出するのではなく、読者の興味をつなぎながら、仕掛け花火のように驚きが連鎖していくわけです。
その結果、冒頭読み始めたころの二人に対する印象と、読み終わった時点での二人に対する印象の落差も読みどころではないかと感じました。こんなに遠いところまで、読者を連れてきてくれたんだなぁ、と。
恩田陸の書いた、ガチガチの本格ミステリを読んでみたくなりました。書いてくれないものでしょうか?
タグ:恩田陸
図書室の海 [日本の作家 恩田陸]
<裏表紙あらすじ>
あたしは主人公にはなれない――。関根夏はそう思っていた。だが半年前の卒業式、夏はテニス部の先輩・志田から、秘密の使命を授かった。高校で代々語り継がれる“サヨコ”伝説に関わる使命を……。少女の一瞬のときめきを描く『六番目の小夜子』の番外篇(表題作)、『夜のピクニック』の前日譚「ピクニックの準備」など全10話。恩田ワールドの魅力を凝縮したあまりにも贅沢な短篇玉手箱。
恩田陸初のノン・シリーズの短編集とあとがきに書かれています。
恩田陸という作家は、雰囲気というか、トーンというかを非常に重要視している作家だと勝手に思っています。
恩田陸が作品ごとに作り上げる雰囲気に浸れるかどうかで、読後感が大きく変わってくると考えています。
シリーズ物で第1作ではさほど感銘を受けなかったのに、シリーズが進むにつれて世界観がしっくりと馴染んできて楽しくなる、というのは恩田陸に限らず普遍的なことだと思いますが、単独作品でもお話づくりにおいて雰囲気の占める比重が高いように思えます。ストーリー展開や事件に気をとられるだけではなく、作品が醸している雰囲気、作品の手触りを味わえたかどうか、そういう切り口で読むと一層楽しい作家だと思っています。
というわけなので、ノン・シリーズの短編というと、さすがの恩田陸でも雰囲気醸成が難しいのではないかと読む前は懸念していましたが、余計な心配でした。
長編のようにどっぷり浸る、ということはないかわりに、短い分ストレートにトーンが打ち出されているようです。
短いだけに、雰囲気だけで1編を押し切ったような作品もあり、ひょっとしたら恩田陸らしさはこちらの方が出ていると言うことも可能かもしれません。場合によると、あっけなく幕切れを迎えるとか、尻切れトンボみたいとかいう読後感を招きがちな作風にも思われますが、浸ってみると、こう、じわじわと居心地がよかったりします。
これまでの作品--「六番目の小夜子」 (新潮文庫)、「夜のピクニック」 (新潮文庫)、「麦の海に沈む果実」 (講談社文庫)--の番外編の趣の作品もあり、恩田陸作品のアラカルト的な短編集ともいえますので、こちらで手触りを確認して、その後長編でどっぷりという楽しみ方もできるかも。
恩田陸作品の楽しみ方をつかんでいなかったころに読んだデビュー作「六番目の小夜子」 (新潮文庫)を読み返してみたくなりました。
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