太宰治の辞書 [日本の作家 か行]
<カバー裏あらすじ>
大人になった《私》は、謎との出逢いを増やしてゆく。謎が自らの存在を声高に叫びはしなくても、冴えた感性は秘めやかな真実を見つけ出し、日々の営みに彩りを添えるのだ。編集者として仕事の場で、家庭人としての日常において、時に形のない謎を捉え、本をめぐる様々な想いを糧に生きる《私》。今日も本を読むことができた、円紫さんのおかげで本の旅が続けられる、と喜びながら。
「空飛ぶ馬」 (創元推理文庫)
「夜の蝉」 (創元推理文庫)
「秋の花」 (創元推理文庫)
「六の宮の姫君」 (創元推理文庫)
「朝霧」 (創元推理文庫)
と続いてきた《円紫さんと私》シリーズの最新刊です。
「朝霧」が出たのが1998年4月。
「太宰治の辞書」の単行本が2015年3月ですから、実に17年ぶりの続巻です。(ぼくは、ずぼらして、文庫化まで待ちましたが)
米澤穂信の見事な解説にも書かれている通りで、もう、このシリーズの続刊は期待できないと思っていたのですが、うれしい驚きです。
この作品がミステリなのかどうか、という点には疑問符が付くように思います。
日常の謎、というレベルもはるかに超えてミステリらしくない境地です。
本の世界を逍遙する私の物語、ということでしょうか。
「求めることがあるのは嬉しいことだ。円紫さんのおかげで、本の旅が続けられる。」(168ページ)
と私自身が述べています。
「《謎》というのは、質問一、質問二といったように、問題用紙に書かれているわけではありませんね。--先生が話した後、《では、何か質問はありませんか?》という。皆な、しーん。分かっているからじゃありませんよね。内容が自分のものになっていないからですよね」
円紫さんは、やさしく私を見つめ、
「そうですね」
質問をするのは難しい。何が謎か、は多くの場合分からない。聞けなくてすみません--となりがちだ。(156~157ページ)
そうそう、その通り、と思わず掛け声をかけたくなりますが、北村薫は謎を見出す名手ですね。
膨大な読書量をバックボーンに、掬いだされる謎の数々。
収録されている
「花火」
「女生徒」
「大宰府の辞書」
3編は、三島由紀夫や太宰治にまつわる物語となっていますが、いったいどれだけの人がこの謎に行き当たるでしょうね。さっと読み飛ばして終わってしまいそうです。
「《生れて、すみません》は、太宰の言葉じゃないんですか」
「確か、寺内とかいう人の一行詩ですよ」(158ページ)
へぇ。有名な話なのかもしれませんが、知りませんでした。寺内寿太郎さんという人の作品だったようですね。
音楽や映画は、聴く時間、観る時間を作り手が決める。
本の場合はどうか。どれくらいかけて味わうかは、読み手にゆだねられる。速読をする人もいる。だが、演奏する朔太郎は、指揮者が棒を止めるように読み手を制御する。本には、こういうことも出来るのだ。
情報である本にも、勿論、意義がある。多くの本がそうだろう。しかし、五行詩「およぐひと」--という情報だけではない、『月に吠える』という本の形でしか受け止めることの出来ない表現もあるのだ。
広くいえば、活字の大きさから紙の質、手触りまで、そこに含まれるだろう。演奏によって、音楽はその色合いを変える。
それこそが、本を手に取るということだろう。(210~211ページ)
文庫本中心で、読み飛ばすように読んでしまうぼくですが、大きくうなずいてしまいます。
本の手触り感が好きなんですよね。電子書籍にはあまりなじめません。歳かもしれませんが。
(余談ですが、Amazonのリンクを検索する際、最近、キンドル版が表示され、文庫版などが出にくくなってしまって不便に感じてします。時代の流れでしょうか)
米澤穂信が解説で、きっとまた《私》に会うことがあるだろう、と書いていますが、ぼくもそう思います。
ミステリでなくたって、このシリーズは貴重なシリーズだと思いますので、楽しみにしつつ待ちたいですね。
<蛇足>
それなりに一所懸命でありながら、今から思えば右往左往していた自分の姿も。(214ページ)
ちゃんと「一所懸命」になっていますね。
そうでしょう、そうでしょう。そうでなくては。
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