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Ψの悲劇 [日本の作家 森博嗣]

ψの悲劇 The Tragedy of ψ (講談社ノベルス)

ψの悲劇 The Tragedy of ψ (講談社ノベルス)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/05/09
  • メディア: 新書

<裏表紙あらすじ>
遺書ともとれる手紙を残し、八田洋久博士が失踪した。大学教授だった彼は、引退後も自宅で研究を続けていた。
失踪から一年、博士と縁のある者たちが八田家へ集い、島田文子と名乗る女性が、実験室にあったコンピュータから「ψの悲劇」と題された奇妙な小説を発見する。
そしてその夜、死が屋敷を訪れた。
失われた輪(ミッシングリンク)を繋ぐ、Gシリーズ後期三部作、第二幕!


「χの悲劇」 (講談社ノベルス)(感想ページへのリンクはこちら)に続くGシリーズ第11作です。

作中で引用されているのがエラリー・クイーンの「Yの悲劇」 (創元推理文庫)で、舞台となるおうちが八田家で、失踪した元大学教授が小説を残している、ということなので、きわめてミステリらしい展開を見せてくれるんじゃないか、と期待するところですが、いやいや、まったく違いましたね。

主な語り手は、八田家の執事、鈴木なんですが、この語り口がどうもぎこちない。
そして、「χの悲劇」に続いて島田文子が登場するのですが、ずいぶん印象が違っていて、あれれ? と思ったんですが、それすらも作者の手の内でしたね...

ミステリだとかなんとかではなくて、森作品の過去と未来の橋渡しみたいな感じです。
(引用したあらすじでは、「失われた輪(ミッシングリンク)を繋ぐ」という表現になっています)
Wシリーズの前日譚、と言ったらネタばれかもしれませんね...でも、この程度を明かしても、この作品の価値は微塵も損なわれませんね。大丈夫、大丈夫。

恐ろしい作品です。
何が恐ろしいって、プロットそのものが恐ろしいですが、いちばん恐ろしかったのはエピローグですね。
なんじゃ、これ!? あまりの恐ろしさに、さむけがしました...


<蛇足>
「暮坂さんは、刑事だったんですね?」
「うん、辞めたのは、もう十年以上まえのことだから、すっかり世間擦れしてしまった」(244ページ)
とあったので、おやおや「世間擦れ」の意味を間違ってるんじゃないかなぁ、と余計なことを考えたのですが、
「世間擦れ? 警察では、どんな仕事を?」
「私は、公安だった。ずっとね。自分はほとんど官僚、相手も官僚、あるいは政治家だ。世間擦れというのはね、あれだ、一般市民に仲間入りした感じだよ」
と続いていまして、まったく正しい使いかただったことがわかりました。失礼しました。
それにしても、こういう使いかたをしたほうが、「世間擦れ」という単語は映えますね。






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青白く輝く月を見たか? [日本の作家 森博嗣]

青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light? (講談社タイガ)

青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light? (講談社タイガ)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/06/21
  • メディア: 文庫

<裏表紙あらすじ>
オーロラ。北極基地に設置され、基地の閉鎖後、忘れさられたスーパ・コンピュータ。彼女は海底五千メートルで稼働し続けた。データを集積し、思考を重ね、そしていまジレンマに陥っていた。
放置しておけば暴走の可能性もあるとして、オーロラの停止を依頼されるハギリだが、オーロラとは接触することも出来ない。
孤独な人工知能が描く夢とは。知性が涵養する萌芽の物語。


Wシリーズの第6作です。
前々作「デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping?」 (講談社タイガ)(感想ページへのリンクはこちら)と前作「私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback?」 (講談社タイガ)(感想ページへのリンクはこちら)は日本で読んでいたものをロンドンに来てから再読しましたが、この「青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light?」 (講談社タイガ)から初めて読むことになります。

今回の舞台は北極基地。
北極基地にある、核弾頭を発射できる戦艦を操ることができるポジションにいるコンピュータがオーロラです。
なんと真賀田四季本人が現れ(41ページ~)、オーロラを止めるようハギリに直接依頼します。さらっとチベットのアミラの本名はスカーレットだと(43ページ)というシーンつきで。
いやいや、なんだかすごいことになってきましたよ。
シリーズを通して進んできた思索(?) もかなりの地点に到達しています。
思索と同時に、コンピュータも進化? していることが分かってきています。

たとえばオーロラに対して、ハギリはこういう感想を抱きます。
「その言葉は、信じられない不完全性の表れだった。人工知能が発した言葉とは思えない。なんと、ぼんやりとした思考、行き当たりばったりの行動だろう。その点は、驚愕に値する。
 これは、進化なのか。
 これが、神を目指した知能の先鋭なのか。
 それとも、人工知能も老いるのか。」(241ページ)
これを受けて、いつものテーマが
「つまり、進化も成長も、それはただ老いることなのかもしれない。
 老いなければ、成長できない。
 老いなければ、子供も生まれない。」(241ページ)
というように敷衍されます。

またこのシリーズの世界観の目指すもの、というのか目指す世界観というのかも、示されています。
たとえば
「おそらくそれは、マガタ博士が目指している共通思考だろう。ぼんやりと、そこにしか道はない、という感覚を僕は抱きつつある。すなわち、人間もウォーカロンも人工知能も、すべてを取り込んだ次世代の生命だ。有機も無機もない、生命も非生命もない、現実も仮想もない、すべてが一つになった地球だろう」(266ページ)
ハギリとオーロラの共同研究というのもなかなか興味深いですね(264ページ~)。
「頭脳回路の局所欠損によるニューラルネットの回避応答が、偶発的な思考トリップを起動する。インスピレーションのメカニズムは、これらの転移の連鎖から生じるものであり、人類に特有のものではない、というのが、僕とオーロラが連名で発表した論文の要旨だ。そして、それは同時に、人類と人工思考体の最後のギャップを埋める可能性を秘めた一歩になるはずだ」(267ページ)
というのですから。

シリーズ的には、ラストが衝撃的でした。
だって、ウグイが昇格(!) したとかいって、ハギリの護衛を離れるというのです!!
後任は、あのキガタ・サリノだというから新しい展開にも期待できますが、うーん、ウグイに会えなくなるのは残念ですねぇ...


英語タイトルと章題も記録しておきます。
Did the Moon Shed a Pale Light?
第1章 赤い光 Red Light
第2章 青い光 Blue Light
第3章 白い光 White Light
第4章 黒い光 Black Light
今回引用されているのは、アーサー・C・クラークの「幼年期の終り」 (ハヤカワ文庫 SF)です。


<蛇足1>
「女優というものが人間の職業として今でもあればだが。」(9ページ)
というところで、ちょっと考えてしまいました。
ジェンダーの視点で書かれているわけではないでしょうから、女優というか俳優というものが職業として存在しない世界になっているということかと思います。
どういうことでしょうか?
人が死ななくなった世界、ということで、映画やドラマを人間は観なくなるということでしょうか? 自分の人生に限界がないから、自分でないものの人生を見る(あるいは覗き見る)ことが娯楽にならなくなる、ということ?
あるいは、映画やドラマは人間がやるのではなく、すべてCGというか仮想で構築されるようになっている、ということ?

<蛇足2>
「ピラミッドにもコンピュータがあるのですか?」(23ページ)
というやりとりが出てきます。
「残念ながら、そんな話は聞いたことがなかった。この時点では、ということだが」
と地の文が続くのですが、とするとこのシリーズ、いつかはピラミッドを舞台にするのでしょうか!?




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私たちは生きているのか? [日本の作家 森博嗣]


私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback? (講談社タイガ)

私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback? (講談社タイガ)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/02/21
  • メディア: 文庫


<裏表紙あらすじ>
富の谷。「行ったが最後、誰も戻ってこない」と言われ、警察も立ち入らない閉ざされた場所。そこにフランスの博覧会から脱走したウォーカロンたちが潜んでいるという情報を得たハギリは、ウグイ、アネバネと共にアフリカ南端にあるその地を訪問した。富の谷にある巨大な岩を穿って造られた地下都市で、ハギリらは新しい生のあり方を体験する。知性が提示する実存の物語。


Wシリーズの第5作です。
「デボラ、眠っているのか?」 (講談社タイガ)の感想にもかきましたが(リンクはこちら)、このシリーズはロンドンに既読の分も持ってきています。
この「私たちは生きているのか?」は、手元の記録によれば2018年2月に読んでいるのですが、読み返しました。

今回の舞台は南アフリカです。かなり地球上をあちこち移動するシリーズですね。

あらすじにも書かれている「富の谷」でハギリたちが経験するものは、わかりやすく言えば映画「マトリックス」の世界です。
身体を置いておいて、意識は電脳空間へ、というアレです。電脳世界で戦ったりはしませんが。
身体と切り離して、意識が存在する、という事態を経験して、考察が深まっていく、という仕掛けになっています。

本書のタイトルからして、「私たちは生きているのか?」で、ここまでシリーズを通してかなり議論が深まってきていることを示していますね。

人間とウォーカロンの違い、というところから発展しています。
人間とウォーカロンという議論では、ついにハギリは、
「ただ言えるのは、人間とウォーカロンが同じものにならない道理がない、ということです。それがサイエンスというものです。どうしても同じにならないなら、そこには確固とした理由がある。理由があるならば、それは必ず解決できるはず。それが科学というものだからです」(195ページ)
という境地に達していますので、次のさらに大きなポイントへ向かっているということでしょう。

とはいえ、人間とウォーカロンの違いには、曖昧さ、とか偶然にたよる、とか発想の飛躍とか、いくつかそれらしいことはシリーズの中で出てきていますが、まだ回答が出ていません。
「そういった感情は、なぜ存在するのだろう?
 ここが、僕にはわからない。
 感情があって良かったな、これがあるから面倒だな、と思うことは誰にもあるはずだ。
 でも、何故あるのか?
 感情がなければならない理由とは何なのか、という問題だ」(246ページ)
というところを読んで思ったのは、感情がキーになるのかな、ということです。
感情があるから不完全で、感情があるから飛躍が生まれる...

生きている、という点では、英語タイトルが示唆的ですね。
Are We Under the Biofeedback?
Biofeedback という以上、この問いには、いわゆる生体反応がベースにありますね。
でも、生体反応をベースにする考え方は、さっさとハギリに否定されてしまいます。

「医療技術が発達した現代では、人は滅多なことでは死なない。以前だったら明らかに死亡と判定される状態になっても、多くの場合蘇生できる。人格が再生されないケースまで含めれば、ほぼどんな状態からでも躰を生き返らせることが可能だ。極端なケースとして、遺伝子さえ残っていれば、そこからウォーカロンとしてクローンを作り出すことができる。
 このような状況にあれば、生命の重要さは、逆に過去のどの時代よりも低下していると見ることができる。同時に、本当に自分たちは生きているのか、といった、生命の概念にまで議論が及ぶだろう。少なくとも、生命を再定義しなければならなくなっているのだ」(113ページ)
「人の命はかけがえのないもの、この世で最も貴重なもの、という信念によってすべてが進められてきた。だが、それは本当なのか、どうしてそんなことがいえるのか、という危うい境界にまで、我々の文明は到達してしまったのである。」(114ページ)
生体反応を否定するどころか、命のかけがえのなさ、まで否定される始末。

それどころか、さらには
「いつか人間もボディを捨てる時代が来るだろう。」(254ページ)
「そのあとには、脳もいらなくなる。脳だって、肉体だからだ。
 人間は、いつか人間と決別することになるだろう。
 抗し難い運命的な流れなのか。」(254ページ)
「精神的な崩壊も心配されているけれど、その精神さえ、洗練されたアルゴリズムで補完されていく未来が、すぐそこまで来ているのだ。肉体を人工細胞で補完したように、人工知能が人間の精神を導くしかない」(254ページ)
と来て、精神まで人工のものになる未来が示唆されています。
ここまで切り離しが進んでしまうと、思考とか論理とかこそが人間の本質だ、という感じになってきますね。
こうなるとちょっと拒否感が強いですね(作中でも、この種のことについては導入時点では拒否感が強いといったエピソードが示されます)。

引き続きデボラが登場し、活躍するのですが、
「私は、デボラは生きていると思う」「自分の存在を意識できる能力、その複雑性が、すなわち生きているという意味だ、と私は解釈しているから」(194ページ)
とハギリが考えるところがあって、前作「デボラ、眠っているのか?」に続いて、おやおやどうなることやら...と思わされるのですが、一方で...
ローリィという登場人物(人間、と観察されています)が自分は生きていないと言った理由としてデボラが用意した答えが
「彼が生きているからです」(262ページ)
おもしろい! 確かにデボラは生きている、と言えそうな雰囲気を醸す答です。
でも、それを受けて、
『「素晴らしい答だね。君は生きているんじゃないかな」
「いいえ。私は、それを自分に問うことさえありません」』(262ページ)
と、あっさりとデボラ自身に否定させているのがおもしろいですね。
それを
「そうか……
 生きている者だけが、自分が生きているかと問うのだ。』(262ページ)
と、ハギリが敷衍します。
自分が生きているかと問うのは、やはり感情のなせる業な気がします。

シリーズ愛読者として興味深いのは、以下のような会話をウグイが僕(ハギリ)と交わす場面があること。ウグイもだいぶハギリに感化されてきたということでしょうか?(*)。
「自由への欲求が生まれるのは、どうしてでしょうか?」
「それは、たぶん、生きていることが、その状況のベースにあると思う」
「生きていることがですか?」
「いや、しかし、何をもって生きているというのか、そこがまた曖昧だ。むしろ逆かもしれない。自由を志向することが、現代では、生きていると表現される状況かもしれない」
「勝手気ままに振る舞おうとする、という意味で、先生は自由とおっしゃっているのですか?」
「気ままというよりは、気まぐれといった方がよい。」「つまり、単純な化学的、物理的反応よりも揺らいでいる」
こんな哲学的(?) な会話をするキャラクターではなかったですよね、ウグイは。


英語タイトルと章題も記録しておきます。
Are We Under the Biofeedback?
第1章 生きているもの Living things
第2章 生きている卵  Living spawn
第3章 生きている希望 Living hope
第4章 生きている神  Living God
引用されているのは、エドモンド・ハミルトンのフェッセンデンの宇宙 (河出文庫)です。

(*)
このシリーズの伝統(?) ですが、ハギリはウグイに厳しい見方というか、意地悪な見方をしていますよね。この「私たちは生きているのか?」でも、そういうところが、ちょくちょく出てきます。
それから考えると、かなり二人の関係性(?) も変わってきたのだなぁ、と感慨が...
「人はまだ戦う、命を懸ける。その生死の狭間といった境遇に、『勇気』のような夢を、いつまで見られるのだろうか。
 今の時代、勇者はどこにもいない。」(10~11ページ)
と考察しておいてから
「自分の周りを見回しても、その言葉に相応しいのは、ウグイ・マーガリィくらいだ。」
と落とすのは、ちょっと...笑ってしまいましたが。

「ウグイは首を傾け、眉を少しだけ上げた。納得がいかない、といった口の形だが、それは普段の彼女のデフォルトの顔に近い。」(12ページ)
というのも意地悪な説明ですね。


<蛇足1>
「ここは港町のはずだが、今は海は見えない。イギリスの女性の名がその街につけられている。かつては観光地として栄えたようだが、世界的に観光が下火になって久しい。
 この土地の価値も、それに応じて下落したようだ。海の反対方向には、奇妙な形の山が見える。なんというのか、上部が平たくて、普通の山のように頂上というものがない。巨大な切株みたいだった。」(16ページ)
後半の山の記述は、テーブルマウンテンのようですが、とすると街はケープタウン、となるはずですが、前半の記述からすると、街はポートエリザベス。
あれれ?
ポートエリザベスにも、テーブルマウンテンのような山があるのでしょうか?
南アフリカ在住の友人に聞いてみましたが、残念ながらポートエリザベスには行ったことがないらしく、わかりませんでした。ただ、ケープタウンとポートエリザベスの間にあるジョージというところには、テーブルマウンテンのような山があるらしいので、ポートエリザベスにもあるのかもしれませんね...


<蛇足2>
ネット上で「簡単に言えば、どんな鍵でも開けることができる万能の合鍵を持っているのです」(160ページ)という説明がなされるところがあるのですが、これってやはり真賀田四季の仕掛けたもの、ですよね。
とするとこの「富の谷」も真賀田四季の構想に含まれていた、ということでしょうか。


<蛇足3>
「人間は、自分の不利になることでも、他者を助けることがあるようです。そういう意味ですか?」
「犠牲的精神と呼ばれているね。」
「犠牲になる自分が美化された一種の倒錯です。その場合、疑似的に自身の利益になっているとも解釈できます」(267ページ)
というデボラとハギリの会話がありますが、犠牲的精神というのは感情の働きの賜物なのでどうやってデボラは観測・解釈したのでしょうね。
人間の感情の動きも、学習した、ということでしょうか。



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デボラ、眠っているのか? [日本の作家 森博嗣]

デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping? (講談社タイガ)

デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping? (講談社タイガ)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/10/19
  • メディア: 文庫

<裏表紙あらすじ>
祈りの場。フランス西海岸にある古い修道院で生殖可能な一族とスーパ・コンピュータが発見された。施設構造は、ナクチュのものと相似。ヴォッシュ博士は調査に参加し、ハギリを呼び寄せる。一方、ナクチュの頭脳が再起動。失われていたネットワークの再構築が開始され、新たにトランスファの存在が明らかになる。拡大と縮小が織りなす無限。知性が挑発する閃きの物語。


Wシリーズの第4作です。
このシリーズは、ロンドンでもしっかりフォローしたいと思っておりまして、中身が中身だけに読み返す必要も出てくるだろうと、既読の分も持ってきています。
この「デボラ、眠っているのか?」 (講談社タイガ)は、2017年8月に読んでいるのですが感想を書けずじまい(書かずじまい?)でした。
だいぶ忘れているので、読み返しました!

前作「風は青海を渡るのか? 」 (講談社タイガ)(感想ページへのリンクはこちら)で百三十年前のコンピュータが再稼働したのちのお話です。

今回、トランスファという存在(?) が大きく取り上げられています。
最初にハギリたちが見つけたトランスファは、デボラと名づけられますが、サリノというウォーカロンを操ってハギリたちと接触を試みます。
「デボラの実体は、単なるコードです。ソフトなんです。」(25ページ)
「ネットワークを介して、あらゆる制御系に高速でアクセスすることができます。」(25ページ)
「人間であっても、そういった機能を体内に装備していれば、そこを狙われます」「ここの警備隊は、全員が人間です。」「しかし例外なく通信が可能なチップを装備しています」(27ページ)
「ようするに、デボラは放てば、あとは学習し、増殖し、目的を達する、というもので、夢のような話だ」(136ページ)
なんだか、すごいですよね。

ここからもお分かりかと思いますが、激しい戦闘シーンが何度かあります。
このシーンが楽しい。
後半の、モンサンミッシェルと思しき(*) 修道院での戦闘シーンなんか、映画を観ているよう。
力でねじ伏せる、という以外に、どうやって切り抜けるか、という点もよくできています。将来ハリウッドで映画化されてもいいですねぇ。(ただ、ハリウッドが作るには、全体のテーマが深すぎるとは思いますが)

人間とウォーカロンの違い、人間とは何か、という点は引き続き取り扱われています。
「発想という行為は、能力なのだろうか。力のように、いつでもすぐ発揮できるものではない。ただ、平均すると、優れた発想を多く取り出せる頭脳とそうでない頭脳があって、そこに明らかな能力差が観察される。そして、僕の知っている範囲では、その発想力を持っているのは、ウォーカロンではなく人間が多い。」(62ページ)
この辺りの考え方は、シリーズを通して慣れ親しんできたものですが、
「ということは逆に、デボラの発想には、どこか人間的なものを感じてしまう。気のせいだろうか。」(168ページ)
なんて感慨を持つシーンに接すると、デボラは人間になりつつあるのか! と警戒(?) してしまいます。
でも未だ
「デボラの発想ではない。
 僕が考えた。
 今思いついたのだ。
 人間しか、思いつかない。」
「単なるインスピレーションだ。
 人間しか、それをしない。
 人間は演算しない。
 偶然。
 そう、偶然だ。
 そんなものに頼るのは、人間だけだ。」(218ページ)
というところもありますので、ちょっと安心(?)。

人間とウォーカロンの違い、人間とは何か、という点は、さらに境地が進んでもおりまして、
「そもそも、この躰というものが、いつまで必要でしょうね」「エネルギィ効率から考えて、すべてをバーチャルにする選択は、けっこう早い段階で訪れる気がします。なにしろ、みんな歳を重ねて、自分の躰に厭き厭きしてしまうんじゃないですか?」(266ページ)
「ただ、それは、僕の躰が実行しているわけではない。僕の頭脳が考えているだけだ。ということは躰はなくても良い。むしろない方が良いともいえる。コーヒーが飲めなくなるとか、散歩ができなくなるとか、諸々考えたけれど、バーチャルの世界においても、きっとコーヒーや散歩が存在し、それを体験し、その感覚を楽しむことが可能だろう。であれば、なにも変わりはないではないか。」(266ページ)
というところまで!!

ウォーカロンの少女サリノの目が赤いのは、きっと「赤目姫の潮解」 (講談社文庫)(感想ページへのリンクはこちら)とつながるんですよね。
「赤目姫の潮解」はいま手元にないので読み返せていませんが、あちらは「意識と身体の分離、というテーマ」ですからね。

シリーズの今後がますます楽しみです。
しかし、真賀田四季、すごすぎ。


英語タイトルと章題も記録しておきます。
Deborah, Are You Sleeping?
第1章 夢の人々 Dreaming people
第2章 夢の判断 Dreaming estimation
第3章 夢の反転 Dreaming reversal
第4章 夢の結末 Dreaming conclusion
引用されているのは、J・G・バラード「沈んだ世界」 (創元SF文庫)です。

(*)
モンサンミッシェルとは書いてありませんが、きっとそうです。
「パリの西方の海岸」(96ページ)
(パリから)「車で三時間以上かかります」(109ページ)
「本来は島だったらしい。潮の満ち引きによって海水に囲まれたり、陸地とつながることがあったという。道路が作られたことで、その堤防の両側に砂が溜まり、現在では島には見えない」(157ページ)
ということですから。


<蛇足1>
「気分転換という意味の分からない古い言葉があるが、おそらくそれだと思われる」(11ページ)
こんなことを言うなんて、ハギリはすでに人間じゃなくなっていますね(笑)!

<蛇足2>
「何ですか、きっちりって」
「ちょっきりとか、ぴったりとか、そんな感じじゃないかな」(34ページ)
というセリフが出てくるんですが、きっちりのほうが一般的な表現ではないでしょうか(笑)?

<蛇足3>
ペィシェンス、という表記があります。
これ、どう発音するのでしょうか? 「ペィ」?
Patience という人名だと思われますが、これ、ペイシェンス、と普通書きますよね? 「ペィ」?

<蛇足4>
「若いときには、新しいものを食べる機会が多く、そのたびにどんなものも美味く感じられたように思う。年齢を重ねると、珍しさも新しさも、どうしても弱くなってしまう。心を動かされるようなことがなくなってしまうのだ」(180ページ)
なるほど...



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χの悲劇 [日本の作家 森博嗣]


χの悲劇 (講談社ノベルス)

χの悲劇 (講談社ノベルス)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/05/07
  • メディア: 新書


<裏表紙あらすじ>
あの夏、真賀田研究所でプログラマとして働いていた島田文子は、いくつかの職を経て、香港を拠点とする会社に籍を置いていた。人工知能に関するエキシビションの初日、島田は遠田長通という男に以前、愛知で起きた飛行機事故に関する質問をされる。トラムという動く密室で起きる殺人。その背後に感じられる陰謀。静かだった島田の生活が、その日を機に大きく動き始める。Gシリーズの転換点。後期三部作開幕!


9月17日に「ダマシ×ダマシ」 (講談社ノベルス)感想を書いた際、本当は(?) この「χの悲劇」 (講談社ノベルス)の感想を先に書かなきゃな、と思ったので、同じ作者の本の感想を続けて書くことになりますが、書いてしまうことにしました。

この「χの悲劇」、出版されたのが2016年5月、手元の記録によると読んだのが2016年7月で、わりとすぐに読んだほうですが、感想を書かずにずっと放置しておりました。
Gシリーズの第10作。
この「χの悲劇」のχ、フォントによって見え方が違うのだと思いますが、英語のアルファベットのXに見えますね。ギリシャ文字のΧ(カイ)です。
もちろん、エラリー・クイーンの「Xの悲劇」 (創元推理文庫)を意識したタイトルですね。
章ごとの引用も「Xの悲劇」 からです。
あらすじに後期三部作、と書かれていますから、この後も「Ψの悲劇」、「ωの悲劇」と続くのでしょうか!? と書いてから気づきました。カバーの見返しのところに、次巻以降の予定にちゃんと書いてありますね...

前作「キウイγは時計仕掛け」 (講談社文庫)(感想ページへのリンクはこちら)が出たのが2013年11月だったようなので、3年半間が空いていますね。
「キウイγは時計仕掛け」 がなんだかシリーズのオールスターキャストみたいな雰囲気でしたが、この「χの悲劇」は、さらに時間が経っている設定で、主人公を島田文子にしています。ダイレクトに真賀田四季を感じられるという意味で、貴重な人物ですね。

そっか、時の流れが重要な要素だったんですね...

事件のほうは、トラムだし、ダイイングメッセージ(?) でXだし、「Xの悲劇」 臭がぷんぷんして素敵ですが、ミステリとしては取り立てて言うほどのことはない感じです。でも、シリーズ読者、あるいは森ミステリィの読者としては味わい十分。
島田とカイの推理(憶測?)だけで、これが真相ということが明示されていませんが、真相は島田の推理通りだと思います。
「知ってしまったけれど、納得できるという気分ではない。世の中の問題の多くはそういうものだ。疑問が解決すれば、また別の疑惑が生まれる。」(269ページ)
なんてさらっと書かれていますが、奥が深いのか浅いのか、絶妙な感じです。
ひょっとして、ちょっぴり「Yの悲劇」 (創元推理文庫)に対するオマージュも入っているのでしょうか。

シリーズという点で、やはりある登場人物の正体がこの本の重大なポイントですね。
さすがにネタバレ中のネタバレなので書きませんが、ちょっと読んでいる途中にそうなのかな、と思えたので気づいた読者の方多いのではないでしょうか?
わざとわかりやすく書かれているのだと思います。
ここで君が出てくるかぁ... なるほど。タイトルもなにか関係が?

時間の経過というのもポイントになっているようですが、次巻の刊行まで、また時間がかかると嫌だなぁ。100年後とか言われたら、読めません...(次巻以降の予定に書かれているので、そんなに間は空かないとは思うんですが。)

「ダマシ×ダマシ」 の時と同様、いいなあ、と思ったHPがあったので、以下に勝手にリンクを張っています。
ただ、強烈にネタばれしまくっていますので、ご注意ください。
灯台杜と緑の少年




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ダマシ×ダマシ [日本の作家 森博嗣]


ダマシ×ダマシ (講談社ノベルス)

ダマシ×ダマシ (講談社ノベルス)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2017/05/08
  • メディア: 新書


<裏表紙あらすじ>
「もしかして、ある人に騙されてしまったかもしれないんです」
上村(かみむら)恵子は、銀行員の鳥坂大介と結婚したはずだった。
鳥坂に求められるまま銀行口座を新設し、預金のすべてを振り込んだ。
だが、彼は消えてしまった。預金と共に。
鳥坂の捜索依頼を受けたSYアート&リサーチの小川令子は、
彼がほかに二人の女性を騙していたことをつきとめる。
だが、その鳥坂は死体となって発見された。
事務所メンバの新たなる局面。Xシリーズ最終話!


森博嗣のXシリーズ第6作にして最終巻です。
「イナイ×イナイ PEEKABOO」 (講談社文庫)
「キラレ×キラレ CUTTHROAT」 (講談社文庫)
「タカイ×タカイ CRUCIFIXION」 (講談社文庫)
「ムカシ×ムカシ REMINISCENCE」 (講談社文庫)
「サイタ×サイタ EXPLOSIVE」 (講談社文庫)
と、これまでの5作は文庫化されています。
森博嗣の作品はほかにも既に読んでいて、感想を書いていないものがいくつかあるのですが、今月読んだ3冊目のこの本を先に感想を書きます。
本当は「χの悲劇」 (講談社ノベルス)の感想を先に書かないといけないとは思うんですが...

ミステリ的には扱われているのは結婚詐欺と、その詐欺師が殺される、という事件です。
結婚詐欺のほうは、なんとなく、ほぅと思える感じで描かれていますが、いくら婚約者といえども、人の口座はこのご時世開設できないのではないでしょうか... 戸籍や住民票では、本人確認用の書類として不足ですし... このあたりの手続きがうるさくなる前に時代設定がされているようにも思えません。
このXシリーズは、非常に現実的に進められるシリーズなので、こういう不手際はあまり好ましくありませんね。
でも、それ以外の、信じ込ませる手口とかは、ナチュラルな感じです。
こういうの好きですね。

シリーズ最終巻だけあって、ミステリ的な部分よりも、登場人物たちの動向のほうが、シリーズ読者には楽しめましたね。
シリーズは終わってしまいましたが、小川令子、真鍋瞬一、永田絵里子、そして椙田泰男の今後が楽しみですね。
あと、やはり、森シリーズならでは、他のシリーズの登場人物とのつながりがさっと明かされるのがポイントですね。


いいなあ、と思ったHPがあったので、以下に勝手にリンクを張っています。
ただ、どちらも強烈にネタばれしまくっていますので、ご注意ください。
灯台杜と緑の少年
KOERU.JPIS  THE PRACTICE OF TRANSCEND ONESELF.


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風は青海を渡るのか? [日本の作家 森博嗣]


風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake? (講談社タイガ)

風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake? (講談社タイガ)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/06/21
  • メディア: 文庫


<裏表紙あらすじ>
聖地。チベット・ナクチュ特区にある神殿の地下、長い眠りについていた試料の収められた遺跡は、まさに人類の聖地だった。
ハギリはヴォッシュらと、調査のためその峻厳な地を再訪する。
ウォーカロン・メーカHIXの研究員に招かれた帰り、トラブルに足止めされたハギリは、聖地89以外の遺跡の存在を知らされる。
小さな気づきがもたらす未来。知性が掬い上げる奇跡の物語。


Wシリーズの第3作です。
「気づき」という無神経な語をあらすじに使うのは勘弁してください、講談社さん。

さておき、前作「魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?」 (講談社タイガ)で見つけた(?) 聖地に一ヶ月ほどで戻ってくるところからスタートです。

冒頭、ハギリとヴォッシュ教授が会話します。
真賀田四季(と思しき)存在について「矛盾を抱えてこその天才」という表現をとった後で、
「生命が、それだ。」「エントロピィ的に考えても、存在自体が矛盾ではないか、違うかね?」(20ページ)
この第3作は、スタートから思索に富んでいます。

54ページからの、ハギリとヴォッシュとツェリンとの会話なんか、もうすごくてクラクラします。
意識とは、生命とは、生きているとは...
ウォーカロンと人間の差異というのが、とりもなおさず、人間とは何か、という点を突きつけてくるので、このシリーズの中心課題ですね。
動きが少ない作品ですが、その分、考えるところが多いです。

またウォーカロンにも異常が発生することが明らかにされます。
「ウォーカロンは、全体でリンクしています。それは、メインのプログラムがすべての頭脳のインストールを司るからです。ある意味で、全体として一つの生体のようなものです。ウォーカロンの個体は、その大きな生物の一つの細胞にすぎません。これは、おそらく人間でも同じです。今やネットで世界中がリンクしていますからね。」
「人間よりも、思考回路のリンクが密接なのです。そのため、拒絶反応も生じやすい。また、生体内で異常な細胞が突然生じるような変異の発生率も高くなります。かつて人類を悩ませた癌と同じメカニズムです。それが、全体思考回路において起こる。そのために、一部のウォーカロンが異変を来す。具体的には、現実離れした妄想を抱くのです。夢を見るような現象のようです」(200ページ)
生殖機能を持つウォーカロン開発に携わっていて、で会社をやめた技術者(科学者?)が日本人で、タナカというのも興味深い設定ですし
「メーカが、逃げたウォーカロンとタナカさんを追わなかったのは、何故でしょう?」
「おそらく、良心だろう」「失敗の責任を取ったものと、むしろ好意的に捉えたのではないかな」(207ページ)
なんてやりとりも出てきます。

そして最後のほうで、ハギリは
「人間の思考の方がランダムで、他回路へ跳びやすい。
 その不規則な運動は、白昼夢に似ている。
 忘れることにも似ている。
 間違えるのも、勘違いも、似ているのだ。
 ぼんやりしてしまうのも……、同じ。
 ウォーカロンの人工頭脳は、それをしない。
 整然としすぎている。
 効率がよく、合理的すぎる。
 だが、もしかして、それは単に……。彼らが新しすぎるからなのではないか。
 古くならなければならない?
 あるいは……。
 歴史を持たなければならないのか?
 人間は、遺伝子によって結ばれた系列の中で、古くなったのだ。
 歴史を育んだのだ。
 我々の頭脳は、いわば腐りかけている。
 もう少し綺麗に言えば……、
 そう、熟成している。
 ということは……。
 今の識別システムによって、人間になりつつあるウォーカロンを判別できる。」(222ページ以降)と考え、
「気まぐれ。
 人間にしかないものだ。
 もしかして、頭脳全体が、その回路の異変を拒否するのではないか。
 そうか。
 拒絶反応か。
 ハードではなく、ソフト的な拒絶
 それは、明らかに、信号からなる論理の世界における拒絶だ」
「ウォーカロンの頭脳には、その遊びがない。」
「ウォーカロンが暴走するのは、それかもしれない。」
と流れて行って、新しい研究に取り掛かります。

百十三年間眠っていたコンピュータも起動しますし、今後の展開がますます楽しみになりました。


英語タイトルと章題も記録しておきます。
The Wind Across Qinghai Lake?
第1章 月下の人々 Sublunary people
第2章 月下の営み Sublunary working
第3章 月下の理智 Sublunary intellect
第4章 月下の眠り Sublunary sleep
今回引用されているのは、アルフレッド・ベスター「虎よ、虎よ!」 (ハヤカワ文庫 SF)です。

<蛇足>
「まるで、空中に向かって塗装のスプレィを吹くような感じだ。どこにも色がつかないうえ、塗料が無駄になる。」(40ページ)
ウグイとの会話を受けて、ハギリが思うのですが、そして確かに二人の会話はそんな感じではあるのですが、「ウグイは空気なのか、と思ってしまった」と続けるのはウグイがかわいそうです。



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魔法の色を知っているか? [日本の作家 森博嗣]


魔法の色を知っているか? What Color is the Magic? (講談社タイガ)

魔法の色を知っているか? What Color is the Magic? (講談社タイガ)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/01/19
  • メディア: 文庫

<裏表紙あらすじ>
チベット、ナクチュ。外界から隔離された特別居住区。ハギリは「人工生体技術に関するシンポジウム」に出席するため、警護のウグイとアネバネと共にチベットを訪れ、その地では今も人間の子供が生まれていることを知る。生殖による人口増加が、限りなくゼロになった今、何故彼らは人を産むことができるのか?
 圧倒的な未来ヴィジョンに高揚する、知性が紡ぐ生命の物語。


Wシリーズの第2作です。
このシリーズ、あらすじ書きにくいでしょうねぇ。

舞台がチベットに移っています。
「人工細胞、人工生命体、人工知能に関する技術と、それらの応用分野がテーマの」(30ページ)シンポジウムが開かれ、そこへハギリ達が赴きます。
ラサ空港から、シンポジウム会場の途中に、ナクチュ特別区というところがあり、そこでは今も人間の子供が生まれている、という設定になっています。

あらすじに書かれている「生殖による人口増加が、限りなくゼロになった今、何故彼らは人を産むことができるのか?」 という点は、前作「彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone?」 (講談社タイガ)でも触れられており、感想のページに伏字代わりに色を変えて記録しておいたのですが、この「魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?」 (講談社タイガ)でも出てきます(出てくるのは当たり前ですね...)。今回も色を変えておきます。
世界中の人間が子供を作れなくなったのは、ウィルスなどの原因によるものではなく、まったくその逆なのだ。つまり、古来の人類がなんらかの問題を抱えていたからこそ、子供を作ることができた。あれは生物として異常な状態だった。現代の人類は、人工的にピュアな細胞を実現し、その障害から解放された。結果として、子孫を作れないという新たな問題が顕在化した」(34ページ)

この背景のもとウォーカロンが増えていて、人間とウォーカロンの区別というシリーズのテーマがいろいろと考察されていきます。
「思考回路のハードが何であれ、信号の種類がたとえ違っていても、意識は生まれると思っています。それが単なる錯覚であれ、自己観測ができる知能とデータ量を持てば、それを意識と呼べるでしょう。ですから、いつから生まれるという閾値はありませんね。意識は、低級な機械にさえあるということです」(47ページ)
ちょっと、くらっと来るような意識論ですね。

また人間がなかなか死ななくなったことを受けて
「すなわち、人類のインテリジェンスの時間的限界とはどの程度か、精神はどのくらいまで崩壊せずに耐えられるのか、という問題」(172ページ)
も出てくる、と。これも「彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone?」 で出てきた考察ですが、確かに大きなテーマかも。「死すべき存在」でなくなるというのは、ありがたいけれど、大ごとですね。

テーマとはずれるとは思いますが、「魔法の色を知っているか? What Color is the Magic? 」でクーデターが扱われているのを受けての
「いわば、平和というレンガを、戦争というモルタルで積み上げていく構造に近い」(249ページ)
というのも、皮肉が効いていてちょっとドキリ。

真賀田四季としか思えない人物? (ウォーカロン?)がちょくちょく出てくるのも印象的です。
我々をどこへ導いてくれるのでしょうね?

英語タイトルと章題も記録しておきます。
What Color is the Magic?
第1章 一連の問題 Sequence of matters
第2章 一連の危険 Sequence of crises
第3章 一連の生命 Sequence of lives
第4章 一連の伝承 Sequence of legend
今回引用されているのは、ウィリアム・ギブスン 「ニューロマンサー」 (ハヤカワ文庫SF)です。

<蛇足>
①「サンドイッチに似せた簡易なランチ」(26ページ)ってどんなものなんでしょうか? 気になりました。

②「片脚だけミニスカートで、真っ白のドレスだった」(85ページ)ってどんな服装なんだろ? 気になりました。

③「間髪を容れず」(85ページ)に、きちんと「かんはつ」と振り仮名が触られていました。
講談社なら当たり前なんでしょうが、一般には「かんぱつ」と読まれることが多いようなのでちょっとうれしかったりして...


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彼女は一人で歩くのか? [日本の作家 森博嗣]


彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone? (講談社タイガ)

彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone? (講談社タイガ)

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2015/10/20
  • メディア: 文庫


<裏表紙あらすじ>
ウォーカロン(walk-alone)。「単独歩行者」と呼ばれる人工細胞で作られた生命体。人間との差はほとんどなく、容易に違いは識別できない。
研究者のハギリは、何者かに命を狙われた。心当たりはなかった。彼を保護しに来たウグイによると、ウォーカロンと人間を識別するためのハギリの研究成果が襲撃理由ではないかとのことだが。
人間性とは命とは何か問いかける、知性が予見する未来の物語。


森博嗣の新シリーズ、Wシリーズの第1作です。
新シリーズとはいっても、本書が刊行されたのは2015年10月で、既に
「魔法の色を知っているか? What Color is the Magic?」 (講談社タイガ)
「風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake?」 (講談社タイガ)
「デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping?」 (講談社タイガ)
「私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback?」 (講談社タイガ)
とシリーズ第5作まで出ています。
感想もかけずに溜まっているなぁ。

未来が舞台ですが、つらつらと設定が説明されないところがよいですね。
次第、次第に、どういう世界かが明らかになってくる。
研究者であるハギリの一人称で語られますが、未来で暮らすハギリが、現在の私たちに向って背景を説明するのは不自然で興ざめです。
67ページからざっと説明されるところはあるのですが、ハギリが人類の歴史を振り返るちゃんとした理由付けがなされています。さすが。こういうところ、結構重要ですよね。

人工細胞の発達で、肉体を機械ではなく、生きた細胞、生きた機関で補うことが可能となり、人間の寿命が半永久的に長くなった。
一方、自律型のウォーカロンと呼ばれたロボット(機械)が、その人工細胞のおかげで人間に近づいた。
ところが同時に、人口減少に見舞われた。子供が生まれなくなったからだ。人口が四分の一以下になった。寿命はどんどん延びているのに。代わりに(?) ウォーカロンは増えている。
このウォーカロンは「完全に生きている。有機質の細胞を持ち、人間と同じ肉体を持っている。どこにも違いがない。意識もあり、学習もするし、癖もあり、失敗もし、感情も持っている。ただ、その生い立ちが違うだけだ。」(71ページ)

こういう世界でハギリが研究しているのは、自然に考えているか、考えていないかが、測定できる手法(35ページ)。
これで、ウォーカロンなのか、人間なのかが判定できる、と。
で、こういう背景のもとにハギリが狙われて...というストーリーなんですね。

面白いのは、そういう研究をしていても、ハギリが決して、人間とウォーカロンは見分けがつかないといけないと考えているわけでも、人間至上主義でもない、というところでしょう。
「もう完全に区別がつかないことになっても、大した問題はない。」「おそらく宗教上の問題しかない。」(94ページ)
「自分は、両者を見分ける方法を研究しているが、こんな研究をしなければならないことが、両者の差がいかに微々たるものかを証明しているのだ」(170ページ)

折々事件を挟みながら、思索を重ねていくハギリを読者は追いかけることになるわけですが、このWシリーズでも森博嗣独特のレトリックとか、話の流れが楽しめて、ああ、新シリーズ開始よかったなぁ、と感じました。


<2017.05追記>
①英語タイトルを書いておきます。
Does She Walk ALone?

②今後のシリーズ展開で重要と思ったところ-人類が生まれにくくなった理由-を自分のメモとして写しておきます。
ある種ネタバレかもしれないと思うところは、色を変えておきます。
「パラサイドが犯人だと覆いこんでいるから見つからない。そうではない。いかなるパラサイトも加害者ではない。一つあるいは複数のパラサイトが、加害者ではなく、被害者なんだ」(アリチ博士のせりふ 56ページ)
「同じ人格がこんなに長い時間存在することは、過去に例がない。多くの哲学者がその点について考えているはずだ。精神科の医者も、また心理学者、社会学者も議論を重ねている。答えは見出せないけれど、なにか宗教的な拠り所が必要になるのではないか、という予測はかなり多くに支持されているところだ。それは、おそらく『神』のようなものだろう。ただし、この『神』は、ただの概念ではなく、実在のテクノロジィが実現する装置になるだろう、と観測される」(ハギリの考察 170ページ)
「機構については、アリチ博士が迫っていました。発想は正しい。何故なら、ほかの理由は悉く消去されたからです。ただ、発想を確かめる実験的な再現には、まだ時間がかかるでしょう。しかし、いずれは発見されます。問題は、そこがスタート地点だということ。おそらくは、微小なパラサイトでしょう。それが見つかったとしても、どうやって元に戻せば良いのか。ここが難しい。なにしろ、もう人間の細胞は昔とは違います。パラサイトが生きられる環境に戻すことが、人工的に可能かどうか。複雑な環境の再現です。短時間では無理。そこで、もし人口環境を用いるとすれば、それはもう、ウォーカロンを培養することと変わりありません。それを人間が許容するでしょうか? 理屈を捏ねることはできても、両者の差は、科学的に同じものになります」(ミチルの保護者と名乗る女性のセリフ 178ページ)


<2017.05追記その2>
章題も記録しておきます。
第1章 絶望の機関 Hopeless engine
第2章 希望の機関 Wishful engine
第3章 願望の機関 Desirable engine
第4章 展望の機関 Obsevational engine

<2018.10追記>
このシリーズでは、全体と各章の冒頭に引用が置かれています。
この第1巻で引用されているのは、フィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 (ハヤカワ文庫 SF (229))です。


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イデアの影 [日本の作家 森博嗣]


イデアの影

イデアの影

  • 作者: 森 博嗣
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2015/11/21
  • メディア: 単行本




去年の11月に出た森博嗣の新刊で、単行本です。

カバーに
「作品数でいえば最も多く僕が読んだ日本人作家の一人が、谷崎潤一郎だ。」
と書かれていて、巻頭や各章のはじめに「細雪」 (上) (中) (下) (角川文庫)からの引用が掲げてあります。
浮遊工作室
『谷崎潤一郎のメモリアルとして企画された本です。』
と書かれているのですが、谷崎潤一郎を教科書でしか読んでいない身には、そのあたりはわかりません。
浮遊工作室に続けて
『内容としては、幻想小説といえると思います。ただ、どの作品の「リスペクト」というわけではありません。そもそも、谷崎の影響を受けているといっても、谷崎のようには書かない、という方向性もあるわけです。これもリスペクトなのですが、文芸界で使われている「リスペクト」とは意味が違いますね。』
とありますが、幻想小説、という部分は理解できても、「リスペクト」うんぬんの部分はよくわかりません。
いや、それを言うと、作品そのものの、よくわからない。
でも、それがいいんですね。
ってコメントも我ながらすごいですが、でも、森博嗣の作品って、そうですよね。
文章のリズム、物語のリズム、ストーリー展開のリズム。
いろいろな小説のピースが、きらきらと輝く光の破片となって、さまざまなきらめきを見せてくれる。

ストーリー自体は、金持ちの後妻である主人公のまわりで次々と人が死んでいく、というもので、ミステリっぽいですが、作者も言う通り、幻想小説、なのでしょう。
現実的、理知的な立脚点を持つミステリとは違う地平に立つ作品だと思います。
小説の技法(?) に信頼できない語り手というのがありますが、この作品の主人公「彼女」も、信頼できない語り手といえると思います。

森博嗣版胡蝶の夢??
というよりはやはりタイトル通り、イデア、なんですから、プラトンなんでしょうねぇ。
有名な洞窟の喩えを小説にしたらこうなるってところでしょうか??








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