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戦争の法 [日本の作家 さ行]


戦争の法 (文春文庫)

戦争の法 (文春文庫)

  • 作者: 佐藤 亜紀
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2009/06/10
  • メディア: 文庫

<カバー裏あらすじ>
1975年、日本海側のN***県が突如分離独立を宣言し、街は独立を支持するソ連軍の兵で溢れた。父は紡績工場と家族を捨てて出奔し武器と麻薬の密売を始め、母は売春宿の女将となり、主人公の「私」は親友の千秋と共に山に入って少年ゲリラとなる……。無法状態の地方都市を舞台に人々の狂騒を描いた傑作長篇。


2024年1月に読んだ5冊目の本です。
「戦争の法」 (文春文庫)
「バルタザールの遍歴」 (角川文庫)で、日本ファンタジーノベル大賞を受賞してデビューした佐藤亜紀の長編第二作。
佐藤亜紀の感想を書くのは「雲雀」 (文春文庫)(感想ページはこちら)以来の2作目。

ミステリ一辺倒の読書傾向なのですが、しばらく日本ファンタジーノベル大賞を追いかけようとしていた時期があり、佐藤亜紀に関しては、その中で「バルタザールの遍歴」 を受賞直後に単行本で購入して読み、正直なんだかよくわからない部分もあったけれどとても心地よく感じ、そのあともちょくちょく読むようになっています。
どの作品も濃厚というか、凝縮された小説という感がします。
内容もそうですし、字面としても、試しにどれか佐藤亜紀の本を手に取ってみてもらえばわかるのですが、字が多い! 空白が少ない印象を受けます。
いずれの作品も、人物の出し入れや構成が考え抜かれている気配が漂っていて(評論家ではないので、詳細に分析する能力を持ち合わせておりませんが)、難しく感じても、わからないと思っても、読んでいてとても楽しいんですよね。
もちろん、登場人物たちや物語そのものも面白い。それに加えて、なんというか、作品を貫く強い意志、作者の意志が感じられるんですよね──ここがわりとミステリを読んでいる時の感覚に近いのかもしれません。

この「戦争の法」も同様です。

ストーリーは、日本から独立した新潟県──いや、そうは書いてありませんね、N***県を主な舞台に、友人とともにゲリラに身を投じた少年の成長を、その少年の視点から描くものです。
地方(というのも失礼かもしれませんが)が日本から独立というと、井上ひさしの「吉里吉里人」(上) (下) (新潮文庫)を連想しますが、あちらは喜劇調であるのに対し、こちらはシリアス路線。
後ろにソ連がいる、という設定がいかにもな感じを醸し出していますよね。ソ連軍が駐留する N***県(N***人民共和国)のありようが妙にリアル(佐藤亜紀なんで、リアルが感じられるのは当たり前なんですが)。
それも一般市民(と言い切れない人もいますが)の日常生活を通して濃密に、主人公がゲリラとなるまでがしっかり描かれます。

一篇の小説としてみたとき、ゲリラの部分がメインになろうかとは思うのですが、それはゲリラ以前の部分があってこそ。
独立前、独立後、ゲリラの戦闘前、戦闘中、戦闘後、いずれの場合であっても、人々は生活をしていくし、ゲリラだって、軍だって、あるいはソ連軍だってそれは同じこと。
そのことが、時に激しく時になだらかに対比されるように、周到に構築されていて、静と動の交錯に眩暈するほど。

「最初に戦争があるわけではないし、戦争によって社会的な関係性が棚上げされるわけでもない。まず傍目にははっきりと見えない関係性があって、その延長線上にたまたま戦争があり、関係性で結ばれた個人の行動様式が戦争によって変更されるだけなのである。ここで戦争はなし崩しに国際政治の原理から切り離されていつの間にか地方風俗に回収され、煮詰められた関係性を次の段階へ進めるための材料となる。」(解説437ページ)
と佐藤哲也が説いていますが、「戦争の法」というタイトルでも、ここで描かれるのは「戦争の法」にとどまらず「人間の法」「この世の法」とでも呼ぶべき真実だと感じます。

ああ今確かな小説を読んでいるという手ごたえを感じられる、充実の読書時間でした。

以下、印象に残ったフレーズのうちのいくつかを(挙げだしたら多すぎて終わらない!)、自分の心覚えのために引用しておきます。 

「極めて知的で、教育もあり、繊細な感性を備えた男であっただけに、戦争が好きだった。にもかかわらず、ではない。大部分の真面目な農民は、ゲリラに身を投じた後も、戦争そのものにはあまり熱心ではない。こんな非常識なゲームに熱狂するのは良識がありすぎるのだ。良識を足蹴にするにはある種の思弁能力と想像力が要る。思弁し想像したことが実際の行動に移されるには、知性と押さえがたい欲望とが癒着していなければならない。知性と欲望が結びつくには、生来ごく繊細で、かつ、よく組織された感性を必要とするだろう。理性で欲望の尻を叩く悪逆の哲学者の誕生である。」(149ページ)

「余程のことでもあれば別だが、人に腹を立て続けたりするには伍長は余りにエゴイストだった。」(225ページ)

「反戦平和で平和は守れるか。もちろん守れると私は確信している。自分の心の平和位なら。武力による世界平和の維持など、どこか余所の戦争好きがやればいいことだ。」(238ページ)

「頭のいい女というのは不幸なものだ。夥しい数の女たちが戻ってきた亭主たちの首に、人目を憚らず、しがみ付いた。同じくらいの数の女たちが尻を蹴って家から追い出した。それもただ単に帰って来てくれて嬉しかったから、或いは腹が立ったから、というだけだ。これなら気が変わっても言い訳が利く。ところが頭のいい女という奴は、自分の感情をきちんと筋道立てて整理しておくから、後戻りが利かないのだ。女が利口に生きるためには頭など不要である。もっともこれは誰でも同じかもしれない」(369ページ)

「だが残念ながら、麻痺と慣れとの間には微妙で決定的な相違がある。前にも書いた通り、暴力に対する感覚が麻痺したら暴力を効果的に行使することはできなくなる。慣れというのは効果を熟知することだ。麻痺と慣れとがどの程度の割合で入り混じっているかには個人差があるが、とりあえず暴力の効果を熟知した我々にとって、ここでの殴り合いや蹴り合いに簡潔で効果的なコミュニケーション以上の意味はない。要するに純粋で儀礼的な暴力行使なのである。現にここに至るまでの立ち回りでも死人は出ていない。出そうと思えばいつでも簡単に出せるのだが。」(377ページ)



<蛇足1>
「殊更な愛国者でなくとも、今だにN***県出身者と知ると非国民扱いする者は多い」(8ページ)
ここを読んで、大昔(高校生の頃)「”今だに” は間違いで ”未だに” と書かなければならない」と言っていた国語教師を思い出しました。
PCの変換で、”今だに” というのは出ないのですね。






タグ:佐藤亜紀
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